ワールドシナリオ前編
『深淵の眼差し かげろうの蒼』第5回
宮殿内の開発室では、リュネ・モル発案のクレーンの設計図作りが進められていた。
大洪水前の帝国ではともかく、もともと皇族の別荘地であったここに大型機械の製造技術を持った人はいない。
リュネの知識と研究員のゴーレム製造技術を合わせて、設計図作りは丁寧に行われている。
「歯車は互いに素、これ動力伝達系では守られているでしょうか。守られていないと、互いの割り切れる数から優先して摩耗し、弱くなります」
リュネの注意に作図をする研究者達が、瞬きも惜しんで確認する。
大丈夫なようだ。
この確認作業はすでに何度か行われていたが、彼らは面倒くさがらずに何度でも見直しをした。
設計図は命だ、と言っていただけはある。
またリュネは、クレーン製作の目的を元漁師の失業対策のみではないことも伝えていた。
「これを皮切りに、動力をゴーレム化し大型化するためのテストモデルを兼ねています」
「うん、いろんな場面で役立てそうだね。とはいえ、あんまり重くなると移動が……組み立て式にすれば……」
ぶつぶつ呟きながら考え込む研究者の傍らで、リュネもまた別のことを考える。
ゴーレム化した大型クレーンが複数機できた時、箱船はメンテナンスが必要な状態ではない、とは言い切れない──。
そんな危機感があった。
一方、故騎士団長の息子が班長を務めるゴーレム班は、部下達が慌ただしく出発の準備を整えていた。
この青年は開発部門の指揮も任されている。
少し前、一号機の細かい調整について話し合いをしていたところに、マーガレット・ヘイルシャムが加わり街の支援に使ってみてはと提案した。
「ゴーレムなら多少の火の中でも平気でしょうし、道をふさいでいる障害物の除去や崩れた建物の瓦礫をどかせることもできるでしょう」
それはそうだな、と頷く声と同時に、暴徒化した人達に何かされないだろうか危惧する声も上がる。
そういう心配が出ることを、マーガレットは予想していた。
「確かにリスクはありますが、貴重なデータも得られると思いますの」
「そうだな……崖上での作業とは違った動作のデータも欲しいしな。現場のデータは特に。少し落ち着いたら出るぞ。──そこのお前、許可もらってきてくれ」
「それがよろしいですわ。何よりこの国家の非常時に何ら協力もせずに、呑気に石人形を作って遊んでいたなどと、あらぬ誹りを受けたくはありませんでしょう?」
マーガレットのこの言葉に、研究者達の空気が冷えた。
青年が剣呑な目を向ける。
「ゴーレム開発は皇帝の命だ。皇帝が完成させろと仰せになるなら、街が燃えてようが完成させるのが僕達の仕事だ。あんたこそ、口ばっかりの小娘と笑われないように、役立つものを示し続けるんだな。それがお互いのためだ」
(ゴーレムの開発案を出したのはマテオの民ですのに……)
睨み合う二人を宥めたのは、試作機の調整をしていた研究者だった。
「君達、なんで見つめ合ってるの!? そういうのはヨソでやってよ!」
ピリピリしていた空気は、たちまち霧散したのだった。
第1章 本土の戦い
暴徒と化した一部のスラム民たちを前に困惑するものは少なくなかった。特に有志として集まってくれた戦闘に不慣れな者たちは、集団戦の心得が無い。ジェザ・ラ・ヴィッシュは彼らの先頭に立ち、力強い口調で声を発した。
「このような混乱に対処するためには、秩序をもってあたることが鉄則だ!」
ジェザの言う通り、相手が五月雨式に攻撃してくる場合には、こちらが集団として意思を持つことで多対1の構図をしっかりと作り上げることが肝要である。
「怪鳥迎撃班、暴徒鎮圧班、医療班、そして連携役。隊列、戦線を形成したうえで、各自持ち場の死守、および作戦の緊密な連携を! 各隊の隊長格は、騎士団員に任せて欲しい」
彼は連携役だ。今こうして伝えて回っているのも、緊密な連携をうまく取るための下準備である。
「ここの暴徒鎮圧班は……街から延びる街道沿いの死守を頼む! この後、別動隊が諸君らの背後を防衛するよう動かしてくる!」
ジェザはそう言って軽く頭を下げると、次の戦線へと駆け出して行った。
彼の指示した街道の死守は、街の住民たちを東の魔力塔まで送り届ける輸送のために必須だった。
「そういうわけで、街道の死守と手前どものサポートをお願いいたしたく」
リキュール・ラミルがリンダ・キューブリックに深々と頭を下げている。
「おいカエル、頭上げろ」
リンダはリキュールの肩を叩き、「任せな」と言って、借り受けた魔法剣を手に取った。
「危険と思われるものは徹底的に排撃する」
コルネリア・クレメンティが馬にまたがり2人の前に現れる。
「そこの暴れ馬は一撃の破壊力こそ強烈ですけれど、手数に不安がありますでしょ?」
リンダは怪訝な顔をして馬上のコルネリアを見上げる。
「わっ、わたくしがその手数分を補ってあげますわ」
その意図が分かり、リンダは左の口角だけをくいっと上げてほほ笑む。コルネリアは目をそらして「やりますわよ!」と声を張った。
聞き取れない言語で突撃してくるスラムの民たち。リンダがヘビーメイスの要領で魔法剣を振るうと、あまりの軽さに斬撃音が鳴る。暴徒に一撃当たって、彼の体が崩れ落ちる。殺傷能力がないとは言え、あれほどの勢いで剣を振るわれたら、「殺された」と脳が錯覚してもおかしくないだろう。
コルネリアは「こちらですわ!」と声を張り上げながら、暴徒たちを陽動していく。街道筋から少し離れたところ、別動隊が待機している列へと誘導し、彼らに後を任せる。街道をしつこく狙っているものは、リンダがおおむね対応してくれているが……。
「いいから離れなさい!」
その脚を狙って馬鞭を緩やかに振るい、戦闘能力を削ぐ。思い切り振りぬけば骨を折ってしまう。だが、彼らは「歪んだ魔力によって暴徒化しているだけ」。できる限り傷つけずに無力化していくのが得策だろう。コルネリアは辺りの様子を伺った。
「次の勢力ありですわ!」
「まだ湧いてくるのかッ……」
リンダは奥歯を食いしばって、魔法剣を握りなおした。
マシュー・ラムズギルは、左腕からぼたぼたと血を垂らしている。彼を傷つけたのは、他でもない彼自身だ。
「すまない」
歪んだ魔力の餌食になっているのは、大人だけではない。むしろ従順で抵抗力の弱い子どもほど、この憎むべきエネルギーの被害を受けているのだ。魔法剣を差し向けると、子どもたちはきょとんとした顔でマシューを見つめて、「先生?」と首をかしげる。それは、彼らの本心なのか、それとも歪んだ魔力の主がそうさせているのか、マシューには分からない。だが、子どもたちを斬らねば、ほかにこれが出来るものはいないだろう。
「すまない……!」
振り下ろした魔法剣に、小さな体躯が崩れ落ちる。マシューは震える右手で懐から短刀を取り出すと、左腕に一筋切り込みを入れる。
「ッ……!」
それが、彼にできる、子どもたちへの精いっぱいの贖罪なのだ。
「おいっ!」
特別収容所の牢を叩いて、バルバロが大声を上げている。
「私をここから出せ! スラムで暴動が起きてるんだろ!」
「ああ」
看守は直立不動のまま、彼女の鬼気迫る姿を見つめている。
「頼む! スラムへ行かせろ! 私はあそこに土地勘もある、暴れてる奴ら、一人残らず目ぇ覚まさせてやる!」
「だめだ」
冷たい返答が返ってくる。「なんで」と怒気を発する前に、彼が近付いてきた。
「お前の気持ちは分かる。だが、この混乱の最中に、元海賊であれほどの事件を起こしたお前を解放してやることは、どう転んでも出来ない」
小さくため息が漏れる。
「それに、問題は歪んだ魔力だけではないんだ。海賊を続けている奴らも、重い壊血病に罹っている……捨て身で攻撃を仕掛けてきた場合は容赦なく――殺すしかない」
「そんな……」
「それ程の非常事態なのだ。陛下は何度も助け船を出した。だが、お前らは従わなかったどころか、抵抗して被害を拡大させている。歪んだ魔力の件にしろ、帝国にとっても、想定外の出来事が起こりすぎたのだ。こうなってしまっては、何としても救う、という余力は残されていない」
バルバロが鉄柵を叩く。鈍い音が響いた。
「くそッ…くそぉッ……!」
瞬間、戦場となっているスラムに、空白が訪れた。
「……?」
メリッサ・ガードナーは振り返る。今、バルバロの声が聞こえたような気がしたのだが――。気のせいかもしれない。メリッサは大きく息を吸い込んで、目をつぶった。
確かに、こんなときにバルバロちゃんがいたら、どれほど心強いだろう……。
ピンと張りつめた空気の中で、目を開ける。暴徒が、すぐそこまで迫っていた。今は1人で戦うしかない。
彼女は自ら海賊船に乗り込んだのだ。帝国に情報を渡したからと言って、利敵の嫌疑をかけられることは仕方ない。それに――。
遠くで、竜巻が起きている。よく知った友人が起こしている暴風。バルバロから弾き出した歪んだ魔力の大半が、トゥーニャ・ルムナに憑りついたのだ。悪意がなかったとは言え、嫌疑をかけられていたタイミングでこうなってしまっては、白い目で見られることも避られないだろう。
メリッサは手に魔力を集中させていく。――だからこそ、ここの暴動は、しっかりと抑えこまないと――。
暴徒と化したスラム民に地の魔力を注ぎ込んで弾き飛ばす。バルバロに憑いていたものに比べれば、数倍レベルが落ちている。あの時みたいに無理に魔力を増幅せずとも、十分相手になる。襲い来る暴徒に、彼女は何度も魔力を注ぎ込んでいった。
ギァオ、と聞いたこともない悲鳴にも似た鳥の声がした。
ヴィオラ・ブラックウェルは、スラム街の端で、上空に向かって強い風を吹き上げている。怪鳥は風を利用して飛んでいるため、突風に煽られるとうまく直線的な飛行ができない。くるりと空中で弧を描いて、旋回すると、別の場所からスラム上空への侵入を試みる。だが、もちろん彼女の目がそれを逃がすはずもない。
魔法剣などを使って弾き飛ばされた瘴気も、まとめて上空高くへと噴き上げて飛ばしている。大量に吹き上げられた空気の塊は、見えない壁になって鳥たちの行く手を遮っている。潤沢な魔力を持つヴィオラも、これほど一気にエネルギーを使うと激しく消耗していく。手に握った回復薬を口にし、熱い吐息を漏らして上空への警戒を怠らない。
行く先を失った鳥たちの集団の中に飛び込んでいく、人の影があった。エルゼリオ・レイノーラだ。彼は風を身にまとい空に浮かんで、鳥たちの行く手を遮る。
「ここは僕にとっても大事な故郷なんだ。――歪んだ魔力なんかの好きにはさせないよ……!」
ふわりと身を翻して人気のない場所へ鳥たちを誘導。追いかけてきているのを何度か振り返って確認する。そして急激に高度を落としながらなおも引き付けると、ぴたりと止まって反転し、鎌鼬(かまいたち)で怪鳥の翼を傷付ける。
「ギァァォオッ!!」
絶叫しながら、鳥たちが一斉に浮力を失って落ちていく。エルゼリオは風で彼らを大地へと軟着陸させると、息を吐いた。
「……ゴメンね! 鳥サン達!」
遠くからそう声をかけても、鳥にそれが分かるはずもない。彼らは恨めしそうな声で何度もエルゼリオを非難した。
次の鳥の集団に向かってエルゼリオが飛び込んで行ったとき――地上から強力な放水があった。
「うわっ……!?」
エルゼリオは肩で息をしながら、額の汗をぬぐって地上をじっと見る。その姿に見覚えがあったのだ。鳥たちを警戒しながら、彼は地上へとゆっくり降りていく。
「キャロルさん!?」
「……え。もしかして――エル君なの?」
そこにいたのは、キャロル・バーン。エルゼリオの幼馴染で、お姉さんのような存在。エルゼリオがレイノーラの家に引き取られる前、色々と遊んでくれた人なのだ。
「本当に騎士になったのね」
キャロルは微笑んだ。自分より低かったはずの背も、いつの間にか追い越されて見上げる形になっている。でも、その顔付きと表情、仕草は、思い出の中にある彼と寸分違わない。これまでにあった彼の知らない話、思い出話が胸の内側からあふれてくる。
「ギャァォッ」
怪鳥の声に、キャロルは我を取り戻す。
「ごめんなさい、あとでゆっくりお話ししましょう。今は、目の前のことに集中……!」
そう言うと、口の端をキッときつく結んで、空に向けて力強く水弾を放つ。
「これで鳥を郊外に誘導するから、エル君は鳥の自由を奪って」
「任せて」
しばらく会っていなかったにもかかわらず、まるで昨日まで一緒に遊んでいたかのような阿吽の呼吸で、2人は鳥たちを次々と迎撃していった。
ゴーレム試作機の出動許可が下り、準備も整った。
そしてスラムやその近辺の状況が落ち着いたという知らせが入ると、ゴーレム班の一部が宮殿を出て行った。
スラム街は、ひどい状況だった。
ほとんどの建物が崩れたため、道らしい道がない。
試作機の最初の仕事は、道を作ることだった。
調整がうまくいったようで、試作機は命令通りに動いてくれた。
「救助隊を用意しないとな」
「おーい、生きてる奴はいるか!」
データの記録と並行して、生存者の捜索もできるかぎり進めていった。
街の教会に、祈りを捧げる者の姿があった。リィンフィア・ラストールは神官の眼前にかしずきながら、目を閉じている。
「大切な人達が、街が、病んでいっています……私の力は、小さくて……」
神官は黙って彼女の姿を見ている。その胸に抱かれた想いの強さに気が付いているからだろう。
「嘆く事よりも、今出来る事を、私はするべきなのです。あの時とは――守られるばかりだったあの時とは、もう違うのですから」
神官は直立不動のままだ。
「その決意がまっすぐなものであれば、願いは成就される」
小さく「ありがとうございます」とリィンフィアは返して立ち上がり、急いでスラム街へと駆け出して行った。
彼女が到着した時点でも、スラムの状況は好転していなかった。次から次へと襲い掛かってくる怪鳥と、歪んだ魔力によって暴徒と化したスラム民が、波状攻撃を仕掛けてきているのだ。リィンフィアは弾き飛ばされた魔力が再び暴徒に憑りつかないよう、空に向かって風を送り始める。あたりの土埃が、一緒に空へと舞い上げられていく。
キージェ・イングラムは一部のスラム民と対峙している。
「お前らは、『生きたい』から、スラムと呼ばれる場所であっても、そこに『居る』んだよな? それなのに、自らの住む場所を壊し、既に自分達が敵視している者の敵意をより煽るなら、救えない馬鹿だ」
歪んだ魔力に支配されかけていたとしても、理性はゼロではない。キージェの言葉に、荒れ狂う男たちの手が、少しだけ緩む。
「殺されても仕方がない事をしているんだ。このまま死にたい奴は死ね。そうでない奴は、身近な死にたくないはずの奴、お前が死なせたくない奴をなだめろ」
「なんだとテメェっ……俺らの気持ちも知らねえでッ……!」
しばし止まっていた男は、手に持った棒切れを振り回し、雄たけびを上げながらキージェに向かって近付いてくる。だが、訓練もしていないスラム民の動きは緩慢で、キージェは簡単にそれを見切り避けた。代わりに、みぞおちに一撃くれてやる。男は動きを止め、その場に崩れ落ちた。
「魔法剣で魔力を弾き飛ばしてやるから大人しくしておけ……生きろ」
キージェの元にルティア・ダズンフラワーが駆け寄り、倒れている男に魔法剣を振りかざした。弾き飛ばされた歪んだ魔力は、リィンフィアの風で巻き上げられて天高くへ。
「こちらはこれで全員?」
「いや、まだ……それどころか、まだまだ来るかもしれない」
ルティアはその言葉を聞いて、小さくため息を漏らした。遠くから蛮族のような叫び声と、建物が壊れるような音が聞こえる。
「向こうで対処をお願いします……私はこの人を野戦病院へ」
その前に、と、提げていた装備の中から水筒を取り出してキージェに渡した。
「もし魔物の爪などで負傷した場合は、水筒の水をかけてください。傷口からゆがんだ魔力が入ってこようとするのを防ぐ効果が、若干ですが、あります。痛みも和らぎますから」
「ありがとう」
キージェはそれを受け取って、騒ぎの起きている方へと走り出す。その背中を見送って、ルティアは男を担ぎあげると、野戦病院へと向かっていった。
タウラス・ルワールは、傷付いた騎士たちを野戦病院へと運び込んでいた。用意していた担架に乗せて担ぎ上げると、「うぐッ」と小さく悲鳴が上がる。肩を抑えた兵士は、どうやら暴徒鎮圧に成功しながらも、反撃を受けてしまったようだった。
「東の塔でも、多くの魔力を必要としています。……回復したら、今度はそちらへ」
「ああ……ッ……ギぃっ……」
無情な宣告ではあるが、今はじっくり傷の回復を待っている時間はない。傷口を急いでふさぎ、そのまま再び戦場へと赴かなければならないのだ。
野戦病院に到着するや否や、彼を下ろし、今度は回復した騎士に向かって、手薄になっている戦場を指示して復帰させる。タウラスも、その後を追いかけながら、負傷者がいないか探して回った。
「なんて数だ!」
野戦病院では、アルファルドが眉間にしわを寄せ、負傷者たちを選別していた。事前に取り決めたルールでは、重傷者は仮設病院の奥に、軽傷者は入口付近に。そして、もう助からない命は、テントの外へと繋がる裏口の近くに。
「俺は医者じゃないんだぞー、まったく」
そうは言いながらも、ひとしきり仕分けを終える。次の患者たちが来る前に、アルファルドは治療薬で対処できる軽傷者を治療していく。緊急性の高く命にかかわるものは、回復魔法も使えるユリアス・ローレンに任せた。幸い、裏口でうめいている声はほとんど聞こえてこない。
「風の様子は」
「こっちには影響なさそう」
リサ・アルマは遠くを眺めて風の向きを見ている。幸い、舞い上げられた土埃のおかげで、どこでどの程度の強風が吹いているかは確認できる。
「それより」
彼女は振り返って、意識を集中する。この負傷者の中に、魔力が残留していないかを調べているのだ。ここに入る段階で一度チェックはかけているが、念のため。この野戦病院内で歪んだ魔力が暴走し始めたら、ひとたまりもない。
「……大丈夫、か」
事前チェックが機能しているおかげか、この中にまだ無用な力を溜め込んだものは見当たらない。――今のところは、だが。
ルティアが先ほど連れてきた男も、しっかりと無力化され、今はアルファルドの前で気を失ったまま、治療を待っている。
ユリアスは、がれきの下敷きになってゴーレムに救い上げられた男を診ている。
「折れていますね……ここも……」
男の腕の骨と肋骨がそれぞれ折れて、目を覆いたくなるほどに腫れている。太ももからは、だくだくと血が溢れている。
「先に止血を……!」
状況をひとしきり確認したユリアスは、太ももに手をかざし、男の治癒力を喚起する。
「すまねえっ……こんな、こんなことを……」
「あなた方が悪いわけではありません……悪霊に憑かれたようなものです。もう、あなたの体には悪霊はいませんから、安心してください」
ユリアスは、彼に微笑みかける。
「スラムの人達は、何も悪くないんです」
「すまねえ……ぐァッ……!」
治りかけた傷口の痛みに、男の顔がゆがむ。
「痛いッ……死にたくないっ、まだ死にたくねえッ……!」
「大丈夫、必ず治りますから」
ユリアスの額を、汗が一筋流れていった。
やがて、街のいたるところから吹き上げていた風が、少しずつ数を減らしていく。
「……終わったのか? それとも……」
風の魔法を使えるものが倒されているとしたら、それは、すなわち帝国の敗北が目前に迫っていることを意味する。
野戦病院では、ただ、事態が好転していることを期待することしかできなかった。
街道をひた走る、集団の影があった。両脇には、騎士と戦士を携えている。彼らが向かうのは、魔力塔。攻撃の手は止まっている。あとは急いで駆けるのみ。ふとその中の一人が振り返って、叫んだ。
「歪んだ魔力になんか、負けるもんかッ!!」
第2章 想いを乗せて
風に身を委ねて飛んでいるトゥーニャ・ルムナは、呼びかけてくる声と対話していた。
「過去に何があったの~?」
『声』はいくつもあり、それが一斉に答えた。
トゥーニャが慌てていると、『声』は一つずつ返して来た。
──人間達は自分の幸せのために、私達を殺すの。
──僕達の世界を、人間達が壊していくんだ。
──魔力はすべて、私達のもの。それを人間達は奪って、好き勝手なことをして私達を贄に生きているの。
『声』は他にもまだたくさん聞こえてきたが、それらはとても小さなささめきで聞き取れない。
「きみ達は、いったいどんな存在だったの?」
──継承者の一族もいれば、人間だったものもいる。みんな、何かに打ちのめされて、絶望して……大嫌いになった。
つまり、強い負の心の集合体ということだ。
それを感じた直後、トゥーニャの頭の中に数えきれないほどの悲しみと絶望の場面が流れ込んできた。
その多くは、圧倒的な水に関するもの──大洪水で亡くなった人々が最後に見たものだった。
ふと、『声』が本土のほうを向いた気がして、トゥーニャもそちらに目を向ける。
その方向には、東の魔力塔があるはずだ。
──ほら、今だってこうして私達を追い出して、焼き尽くして、無くしてしまえばいいと思っている。
悲しい、苦しい、つらい。
胸が痛くなる感情が、トゥーニャの中で渦巻いた。
「それなら……」
不意にトゥーニャはひらめいた。
みんなが『仲間』になれる方法。
『仲間』を守る方法を。
☆
警固の騎士達に見守られ、白く高い魔力塔の敷地内に人々が集まって来ていた。
ふだんは固く閉ざされている門は、今は開放されている。
集まった人々の顔はどれも、不安と緊張に満ちている。
度重なる凶事に人々は心身ともに疲弊していた。
けれど、広場で騎士団副団長の演説を聞き、恐ろしいことはこれで終わってくれと一縷の望みでやって来たのだ。
ヴィスナー・マリートヴァはそんな人々の様子を、さりげなく観察していた。
それから、今は別の場所で戦っている幼馴染の兄妹を思い、自分のすべきことを思った。
(箱船もアリョーシャとターニャに任せた。多くの場所で戦う人がいる。俺もすべきことをしよう)
心を定めた後、傍らのローデリト・ウェールに視線を移す。
(リトは魔法を知らない……)
いろいろな事情が重なり、才能はあるが魔法の教育を受けたことはない。
暴走などは起こらないだろうけれど、ヴィスナーは彼女の近くにいることにした。
魔力塔を見上げる。
(俺の魔力が劇的に何かを及ぼすとは思ってないが、だけど、手助けになればいい)
助け合わなければ、誰も生きられないのだから。
「これに祈ればいいのかしら……」
「そうかもな……何でもいい、早く日常を戻してくれ」
近くにいた人達が、すがるように祈り始めた。
「僕も魔力提供するよー。誰か死ぬのやだよ。生きるほーが死ぬよりむずかしーんだし。生きて、笑おーよ」
ね、とローデリトはヴィスナーを見上げて微笑む。
ヴィスナーも微笑み、頷き返した。
ローデリトは、自分が集中しやすいように歌を歌うことにした。祖母から教わった歌だ。
「Magh Mell Magh Mell Tir Taimigiri
温もりの火
潤しの水
癒しの風
恵みの地
汝の約束の地は何処か
Magh Mell Magh Mell Tir Taimigiri
解放と安息を得よ
時は約束の娘
喜び溢るる約束の地……」
歌を口ずさみながら、静かに祈り続けた。
一方、高いだけの白い塔にはなかなか祈りの気持ちを向けられない人もいた。
そんな人達に、カーレ・ペロナはこうアドバイスをしていった。
「塔にただ魔力を流すのではなく、どのような意図を持っての行いのか想いを込めることが大切です」
「想いか……」
「街が早く元気になりますよーに!」
親子連れが塔を見上げ、祈り始める。
また別の人にはこう勧めた。
「個々人の想いであれ使命であれ、良き流れを願えばより強い力となるはずです」
「良き流れか……こんなめちゃくちゃなこと、誰も望んでないよな。あの大洪水とその後の混乱を生きのびて、ようやく落ち着いてきたと思ったのに。騎士さん、ありがとう。一生懸命祈るよ」
カーレよりも年下の若者は、疲れた顔に微笑みを浮かべた。
彼らのやり取りをたまたま見ていたジン・ゲッショウは、塔を見上げ、それから海の先の燃える島へ目を向けた。
海の向こうに、島影と、空へ伸び上がる細い筋がいくつか見える。
(あの竜巻を、トゥーニャ殿が……)
傭兵騎士のトゥーニャは、ジンが所属するスヴェルに何度も力を貸してくれている。
「知らぬ仲ではないし、放ってはおけぬ。魔導砲とやらでトゥーニャ殿を救えるのなら、拙者の魔力を捧げよう」
ジンの魔力は人より抜きん出ている。
彼は持てる全ての魔力を魔力塔に注ぐため、意識を集中し始めた。
トゥーニャが助かるなら、倒れても構わないと思っていた。
と、そこに数台の馬車や荷馬車が到着した。
馬が牽引できる限界まで人が乗せられている。
「皆様、こちらでございます。ああ、慌てなくても大丈夫でございますよ」
丁寧に人々を案内しているのは、ポワソン商会代表のリキュール・ラミルだ。
彼は懇意にしている商会に声をかけて馬車などを提供してもらい、街の人々の輸送を行ったのだった。
大勢の人々を降ろした馬車や荷馬車は、次の輸送のため街に引き返していった。
ちなみに、後続の馬車がもうじき到着する予定だ。
「この塔に魔力を注げば、竜巻を起こしている奴を助けられるのよね」
傍で呟かれた声に、ジンが答えた。
「カーレ殿……騎士殿が、良き流れを願えばより強い力となるはずだと言っていたでござる」
「あたし、あんまり魔法は得意じゃないけど、がんばるね」
それから誰が始めたのか、人々はいつの間にか幾重もの輪になって魔力塔に魔力を注ぎ始めていた。
「そろそろ次が着く頃でございますね」
リキュールは馬車の誘導のため、敷地を出た。
振り返ると、人々の祈りの魔力が輝く輪となって塔をきらめかせていた。
魔導砲発射のため、魔力塔内部へと入ったウィリアム達。
出迎えた騎士にマリオ・サマランチが一言二言を話すと、騎士はとたんに背筋を伸ばしかしこまった。
一行は騎士の案内で最上階を目指した。
塔の内部は殺風景なもので、中央にまるで心柱のように太い柱がそびえ立っている。
柱には螺旋階段がぐるぐると巻き付き、上へと伸びていた。
このてっぺんに、魔力を蓄積する魔導装置があり、今まさに外で祈る人々の魔力が集まって来ているのだと騎士は説明した。
「うん……確かにどんどん集まってるね」
そう言ったシャナは、ふと上を見上げてげんなりした顔になった。
階段のてっぺんが見えない。
体力があるウィリアムは登りきれるだろうが、シャナやアーリー・オサードには厳しいかもしれない。
途中休憩を挟みながらも、どうにか最上階までたどり着いた。
ウィリアムも息切れするほどの疲労を覚えた。
何か言うこともできないくらいヘトヘトになっているシャナとアーリーに、休んでいるように言ったマリオが、最上階の中央にある箱型の魔導装置へ近づいていった。
それに触れると、円形の図が中空に描かれた。
「魔法陣……いや、帝国か?」
驚くウィリアムは、続いて帝国図にいくつか目印がついてくのを見た。
マリオが振り返り、それらを指し示しながら言う。
「ここが現在地。こちらが燃える島。トゥーニャはこの辺にいるはずだよ」
と、燃える島の近くの海上を示した。
それを眺めながらウィリアムはアーリーに尋ねた。
「トゥーニャの中に継承者の一族の残滓でも入ってるのか?」
「異常な魔力の持ち主だから、それに引かれて集まってきちゃったのかしらね。彼女の魔力を利用するために」
アーリーの言葉にトゥーニャへの同情の色はなかったが、やるせない何かを抱えている様子があった。
ウィリアムはおもむろに魔法剣の柄を握った。
歪んだ魔力の影響は、塔内にも及ぶかもしれないという警戒による。
魔力の低いウィリアムはほとんど影響を受けないだろうから、もしアーリー達に異変があれば自分がやらねばと決めていた。
ところが、それはやわらかく微笑むマリオに止められた。
「この場でもっとも影響を受けやすいのは、そこの騎士だよ。でも、この塔の中はそれなりに守られているから安心していい。心配してくれてありがとう」
「……つまり?」
「継承者の一族は、歪んだ魔力の影響を受けることはないんだ。私を含めてね」
「……マリオも継承者の一族だったのか?」
マリオが頷いた直後、騎士がウィリアムに厳しく注意した。
「口のきき方に気を付けろ。このお方は皇帝陛下でいらっしゃるぞ!」
まあまあ、となだめるマリオ。
「皇帝? あなたバチッとなった人よね?」
マリオを見て不思議がるシャナ。
皇帝ということは名はランガスであるが、前に会った時は別の名を名乗っていたはず……と思うも、まいっかと軽く流した。
「アーリー、皇帝って……」
アーリーを見るウィリアム。
驚くウィリアムを後ろに引っ張って、アーリーは小さな声でウィリアムに言った。
「そう、こっちが本物。私が婚約した人」
この男が人の女を取った男か……!?
ウィリアムは思わず、マリオの背を睨んだ。
「いい? ウィル。彼が歪んだ魔力を弾きだした直後がチャンスよ。疲れてるはずだから」
冗談ぽくアーリーが囁きかけた。
(何のチャンスですか、アーリーさん!)
「まあそれはともかく。なんかやる気でないのよ。私が変なことしでかさないように、傍で見張っていてね」
「私が皇帝であることは他言無用で頼むよ。では、そろそろ始めようか。シャナさん、この装置に触れてみてくれ。空に飛ばされた歪んだ魔力を感じるかい?」
恐る恐るシャナは箱型の装置に触れた。
とたん、歪んだ魔力の重苦しい気配を感じ、反射的に手を離してしまった。
「こんなものにトゥーニャという人はさらされているのね……。彼女は、どんな人なの?」
尋ねられたウィリアムは、自分が知る限りのトゥーニャの人となりを教えた。
「マテオの囚人連中が、奴の枷だ」
「そう。大切な仲間なのね。教えてくれてありがとう」
シャナは深呼吸をすると、気合を入れて再び装置に触れた。
ふわりと風が舞う。
その頃、帝国の上空では、高く飛ばされた大量の歪んだ魔力が、魔力塔の力を借りたシャナによって一ヵ所に集められていた。
集まるにつれ、見えなかった歪んだ魔力が見えるようになっていく。
それは上空にどす黒い色で渦を巻き、地上の人々を恐れさせた。
燃える島近くで飛んでいるトゥーニャは、『声』に誘われるままそれを吸収していった。
体が燃えるように熱くなっていくと同時に、どこからか力が湧いてきた。
集められた歪んだ魔力が横取りされていることを、シャナは感じ取っていた。
「アーリー、早く燃やして。トゥーニャが少しずつ奪ってる。このままじゃ、バケモノになって戻れなくなる」
「応答はないの?」
「ちょっと待って──仲間? 人間に奪われて虐げられてきた……継承者の一族や人間だったもの……大洪水で死んでしまったたくさんの人……」
「それが歪んだ魔力の正体ってわけね。そしてそれを仲間だと思っている、と」
「うん。どっちから言い出したかわからないけどね。仲間を守りたいのかもしれない」
ウィリアムから聞いたトゥーニャという人物なら、そうするだろうとシャナは思った。
「彼女から歪んだ魔力を弾き出すよ。シャナさんはそれもまとめてくれ。その後すぐにアーリーさん、頼んだ」
アーリーが装置に触れるとマリオも手を当てた。
頭上で魔導砲の駆動音が低く響き、それからバーンッと落雷のような轟音がして塔が振動した。
この時、外で塔に魔力を注いでいた人達は、塔から燃える島の方角へ金色の光線がまっすぐ飛んでいったのを目撃した。
一息吐いたマリオがシャナとアーリーを促す。
シャナは、トゥーニャから弾き出された歪んだ魔力を回収。
アーリーは装置に手を触れたとたん、中空に描かれた帝国図と自身の感覚が繋がったことを感じた。
集められた歪んだ魔力の中心がどこにあるのかもはっきり感じ取れた。
シャナも感じた現象だ。
これでどこに魔法を放てばいいのか、正確にわかる。
アーリーは始終無言のまま魔力を注ぎ、圧倒的な火力で上空のどす黒い渦を燃やし尽くした。
その際、トゥーニャが自身の魔力のみで海水を巻き上げて阻止しようとしたが、力は及ばなかった。
魔力塔の魔導砲の準備が進められている頃、リモス村を出た箱船は燃える島近海に到着していた。
船には数名の水の魔術師が乗り、水の障壁で海獣の脅威から船を守っていた。
今回はベルティルデ・バイエルも乗っているが、彼女の力は切り札として温存されている。
上空にはシャナによって集められた歪んだ魔力が、どす黒く渦巻いていた。
甲板で様子を見ていたコタロウ・サンフィールドが、操舵室に向けてもう少し進むように合図した。
「あそこに飛んでいるのがトゥーニャさんでしょうか」
「ベルティルデちゃん、出てきちゃったの?」
「気になってしまって。魔導砲で歪んだ魔力を弾き出されて気絶したトゥーニャさんを、設置したネットで受け止めるんですよね」
「そうだよ。絶対に失敗できないね」
「はい。大切なマテオの仲間ですから。必要なら、波を操って船を走らせます」
あまり負担がかかることはしてほしくないコタロウは、あいまいに苦笑した。
受け止め用のネットは、出航前に設置したものだ。できるだけ大きく作ってある。
一通り箱船の周りを見てきたマルティア・ランツが、今のところ差し迫った危険はないことを告げた。
「水の魔術師さん達のおかげね。私も最後まで気を抜かずに警戒を続けるわ。箱船は絶対傷つけさせない」
そう言ってマルティアは、トゥーニャを見上げた。
箱船は、マテオ・テーペにとって替えの効かないとても大切なもの。
だから、同じマテオの仲間なら、トゥーニャもそう思っているはずだとマルティアは信じた。
「俺があそこまで飛んで、魔法剣で歪んだ魔力を追い出してこようか」
同じく見上げていたヴォルク・ガムザトハノフは言ったが、ベルティルデが止めた。
「ヴォルクさんの力を信じていないわけではありませんが、あそこはかなり高いところです。それに今のトゥーニャさんは、半ば乗っ取られています。反撃を受けたら、あなたでもただではすまないでしょう」
ベルティルデには、トゥーニャに歪んだ魔力が集まりかなり危険な状態であることがわかっていた。
「それにしても」
と、眉間にしわを寄せて加わってくるリベル・オウス。
「今はあそこに留まってるが、この後動き回られるとめんどうだな」
そう言うと、リベルはマストの見張り台に登っていき、大声でトゥーニャに呼びかけた。
トゥーニャは、たった今箱船の存在に気づいたようだった。
ふわふわと寄って来た彼女から、何してるの~、といつもの呑気な声が返って来る。
「ちょっとした遊覧だ。お前こそ、ご機嫌に飛び回って楽しいことでもあったのか?」
「僕を仲間と言ってくれるみんなに会えたんだよ~」
「そりゃよかったな。俺にも紹介してくれねぇか」
「いいけど……きみ、魔法と縁が薄そうだからね~。みんなの声、聞こえないと思うよ~」
「なんだ……そいつは残念だな」
無邪気なトゥーニャの笑顔に、これから行われることが本当に彼女を助けることになるのか、迷いそうになる。
リベルが次の言葉に詰まった時、辺りが金色の閃光に包まれた。
痛みも何もない。やさしく抱きしめられるような、あたたかい光。
魔導砲だ。
眩しさに目を細めるリベル。
それから数秒後、上空のどす黒い渦を巨大な炎の槍が貫いた。
圧倒的な火力が、たちまち渦を飲み込み燃やし尽くしていった。
歪んだ魔力を弾き出されたトゥーニャは意識を失い、落下していく。
見張り台から身を乗り出したリベルが注意を呼びかける前に、風の魔法で身を浮かせたヴォルクがトゥーニャをやさしく受け止めた。
そして、羽毛のように甲板へ……とはいかず、設置されたネットの上にポスンと落ちた。
人ひとりを抱えて飛ぶのは難しい。
ヴォルクは魔法剣で、トゥーニャの中に残っているだろうわずかな歪んだ魔力を弾き出した。
「これでいいな。しかし……母の教え『愛氣』は奥が深い。何の工夫もなく受け止めていたら、肩が外れていたかもしれん」
『愛氣』とは、柔の技である。
ネットの上の二人に、見張り台から降りてきたリベルが声をかけ、怪我がないことを確認した。
「二人とも、よかった。見て。竜巻もなくなったし、空がきれい」
マルティアの声に顔を上げると、どす黒い渦はきれいになくなり、さわやかな青空が広がっていた。
「次は燃える島の周りを調べるのよね。引き続き、海獣とかに注意しておくわね」
「危ない時は、呼んでくださいね」
箱船の警備に戻るマルティアを、ベルティルデは見送った。
リベルが診たところトゥーニャはただ気を失っているだけのようなので、彼女を船員室のベッドに寝かせ、箱船は燃える島周辺の調査を開始することにした。
燃える島のことを知るナイト・ゲイルは、少しでも体調を整えておくため回復薬を服用しておいた。
その背に、クラムジー・カープが声をかけた。
燃える島のことを教えていただけませんか、と。
「燃える島には何故か歪んだ魔力が集まっている。それを燃やすために、島は燃えているようだ」
「燃えている限りは、島に集まった濃い歪んだ魔力の影響はやわらげられる、と考えいいのでしょうか」
「そうかもしれねぇが、火傷じゃすまない炎だ。どっちがマシかなんてわからねぇな」
「確かに、あの炎は尋常ではありませんね」
クラムジーは燃える島を見やり、途方に暮れたような顔になる。
近づくものすべてを拒むような激しい火炎が、島全体を支配していた。その熱気は、だいぶ離れたここまで届くほどだ。
上陸するとしたらわずかな沿岸部分だけだが、今回は上陸はせず海中調査である。
「今のところ海賊もいないし海獣も襲ってくる様子はない。潜るなら今じゃないか?」
マルティアや他の船員達と箱船周囲の警戒をしていたロスティン・マイカンの言に従い、箱船は潜水の準備に取りかかった。
そして水の魔術師達が障壁を強くした後、箱船は海の中に潜っていった。
潜ってからもロスティンは気を緩めることはなかった。
水の障壁が破られることは滅多にないだろうが、万が一、突き破って来るような凶暴な海獣が出た時には、素早い対処が必要になるからだ。
「一番いいのは、何もなくボーッとしているだけで終わることなんだけどね」
「その通りね。海獣はいるけどけっこうきれいな海だから、こんなふうに気を張ってるのは何だかもったいないな」
ロスティンとマルティアが会話を交わしている間にも、潜水行は続いている。
その頃船長室では、アウロラ・メルクリアスが羅針盤を見つめていた。
前の調査では、羅針盤は南北ではなく、東西を指していた。
それぞれには燃える島とリモス村がある。
それは今も変わらない。
窓から見える外の様子は、もとは高原だったとは思えないほど海の中そのものだった。
五年もあれば、これほどまでに変わってしまうことが実感できた。
島に近づくほど海草類は減って行った。魔物化したものがいなかったのは幸いだ。
むき出しの岩肌がしばらく続いたが、やがて大きく口を開けた洞窟を発見した。
箱船が入れるくらいの大きさである上、入口付近にはこれまで以上の海獣がたむろしていた。
「海獣の住処なのかな……攻撃してくる感じはないね」
しばらく箱船は留まっていたが、大小さまざまな海獣達はまるで関心を示さない。
箱船はゆっくりと慎重に洞窟内へ入って行った。
アウロラが確認した羅針盤に変わった動きはない。
「ここでも、火山の時みたいに儀式が行われていたのかな。だとしたら、元は儀式の生贄になった継承者……?」
アウロラの疑問に答えられる者は、ここにはいなかった。
一本道だった洞窟の先に、ぼんやりと分かれ道が見えてきた。
帝国地図と羅針盤を照らし合わせてみると、燃える島の中心部と本土のほうにそれぞれ伸びているように見えた。
箱船は、燃える島中心部へ続くと考えられる道を選んだが、道はしだいに細くなり箱船での潜航は難しくなってしまった。
アウロラは船長室を出てマルティアに松明を灯してもらい、奥に目を凝らす。
集まって来たみんなで暗闇の先を見極めようとしたが、わかったのはこの先は人工的な地下道らしいことだけだった。
「遺跡の地下か……?」
ナイトが記憶と照らし合わせながら推測する。
「こういうのって、たいていやべぇんだよな。……何かうすら寒くなってきた。他には何もなさそうだし、平和なうちに戻らない?」
ロスティンの言葉に全員が頷き、箱船は海上へ戻ることになった。
第3章 海賊の最後
険しい顔つきで自船を操舵しているのは、エンリケ・エストラーダだ。海獣を二体従え、燃える島からリモスへと進んでいる。目的は、箱船の襲撃である。
「……」
じとりとした目で、仲間の海賊が漕いでいる小舟を見た。見覚えのあるはずの顔。だが、どんよりと青白い顔色は、まるで彼らがこの世の生き物ではないようにさえ感じられる。燃える島から出る前には、仲間の1人が目の前で死んで、彼の死骸を置いてきた。この中で、次に誰が死んでもおかしくないほどに、追い詰められている。だが、これほどの状況でもあるにもかかわらず、誰も「投降」の2文字は決して口にしない。歪んだ魔力のせいだろう。エンリケもまた、歪んだ魔力の影響を受け始めているようだった。
一団は、ようやく本島の半分ほどのところまでやってきた。しかし、ここからの海流は変化が激しく、船で近付くことができそうにない。
「チッ……潮目が良くなけりゃあ、リモスには近付けねえんだった……」
無理に近付こうとすれば、一気に海底に引き込まれる。エンリケは仲間たちを制して、奥歯を噛み締めた。
「そこまでです」
海賊たちの小舟に比べれば、数段大きな帝国の魔導船。その波にあおられて、エンリケの船は上下に大きく揺れた。
「もう、これ以上無益な争いはやめましょう」
船首に立っているのは、アレクセイ・アイヒマン。その後ろには、タチヤナ・アイヒマンの影もある。
「今は、人同士で争っている場合ではないのです」
アレクセイの言葉に、海賊は目を伏せた。そして、エンリケに小声で「どうします」と聞く。後ろには荒れ狂う海流。前には帝国船。帝国と対峙すれば、良くて捕縛、最悪その場で斬り殺される。だが、退がればほぼ確実に死ぬ。
「……やってやろうじゃねぇか」
エンリケの瞳に、闘志が燃え上がる。帝国船に気付かれないように小声で指示を出す。
「海獣を行かせろ……一緒に地獄に引きずりこんでやろうぜェ」
帝国船の上では、フィラ・タイラーが乗組員たちに事情を聞いて回っている。彼女が乗り込んでいるのは、実地試験も兼ねた焙烙玉のデータ収集が目的。そのためには、敵の魔法能力についてあらかじめ把握しておかないと、正しいデータが取れなくなる。
「残されているはずの……あの男――周りより少し大きい船に乗っている男が、強い火の能力を持っているとか」
「なるほど……それなら、あの男だけは、先に排除しておきたいですね……お願いできますか?」
火の能力が強いということは、焙烙玉で発生した炎を操られてしまう可能性があるということ。試験以前に、こちらに火の手が及んでくる危険もあるのだ。騎士団員は事情を理解して、そのことをアレクセイとタチヤナに伝えに行く。
瞬間、帝国の船にゴツンと大きな衝撃があった。
「敵襲っ!」
タチヤナは振り返り、大声を上げた。
「魔力で浮上を!」
そう言いながら係留しておいた小舟を下ろし、海へと降り立つ2人。ほぼ同時に、魔導船は空中へ。
アレクセイは海獣の動きを見ながら、海の中へと向かって火の魔法を放つ。海水温が上がり、海獣がうまく近づけなくなっているようだ。その間に一気に海賊たちの小舟に間合いを詰める。タチヤナが敵舟に飛び乗って、魔法剣で切り付けて魔力を押し出す。
「くそッ……!」
エンリケの炎が仲間ごとタチヤナを焼き払おうとすると、アレクセイの炎がそれを横から妨害する。間一髪難を逃れたタチヤナは、さらにエンリケの帆船に飛び乗ると、今度は魔法剣ではなく物理切断の可能な剣で、エンリケの肩口に斬りかかった。
「ぎッ……おらァッ!」
エンリケが振りかぶった拳をかわして、さらに太ももに一太刀。
「危ないッ!」
タチヤナの背後から狙っている別の海賊を、アレクセイの炎が制する。さらにタチヤナは剣を構えると、エンリケの懐に飛び込んで、その太ももに一撃叩き込んだ。
「ぐあぁッ……!!」
痛みに悶えるエンリケ。船の中に崩れ落ちて、肩で息をしている。だが、意識があれば、いつでも火の魔法を使われてしまう可能性がある。捕縛しなければ――!
「上等だァッ……ここで一緒に死ねッ!!」
エンリケが絶叫する。自らの船に火を放ち、最後の力でタチヤナの足首を掴んだ。
「ターニャッ!」
アレクセイは火を操り、手前側の火をかき消す。タチヤナは、自由の利く足でエンリケの手を踏んで無理やり離させると、勢いよく海へと飛び込んで兄の元へと泳いでいく。
「ふっ……ふはは……ははははッ! あーッ、はッ、はっはっはァッ!!」
エンリケの悪意にまみれた笑い声が、海上にこだまする。タチヤナは、アレクセイの乗る小舟へとたどり着き、濡れた髪を軽く左右に振った。
「離れよう……何があるか分からない」
本当は助けて捕縛したかったが、こうなっては、もうどうすることもできない。じきに、空中から焙烙玉による攻撃が始まるはずだ。巻き込まれてはいけない。
アレクセイが小舟を下げていくのを上から見ていたフィラは、すでに火の手が上がっている海賊の残党たちが乗る小舟に向かって、焙烙玉を1つ投下した。
それは、彼女の想定通りにさく裂し、一層大きな火柱を立てる。空中に浮いた魔導船の上からもまぶしいと感じるほどの火球は、一瞬あたりの海を膨大な量の火で覆いつくしたが、すぐに蒸発した海水によって鎮火された。
「大体想定通りだけど、もうちょっと効果が持続してもいい、かも……っと」
フィラはメモを取り出して、炎上している海賊船の様子を記録していく。
魔導船は降下し、アイヒマン兄妹を救出すると、海賊船だった残骸に黙とうを捧げ、その場を後にした。
「ははッ……その程度の炎で、俺が死ぬわけねぇだろ? ナメやがって」
辺りは暗く、ここがどこかも分からない。だが、確かにエンリケの鼓動は、止まっていなかった。
第4章 エピローグ
スラム街の騒ぎなど一連の事件が、ひとまず終息した。
東の魔力塔を下りたシャナは、警固の騎士から帝国魔導船に乗るように言われる。
アトラ・ハシス島から戻って来るアルザラ1号を迎えに行くように、とのことだった。船長で航海士レイニ・ルワールの夫でもあるタウラス・ルワールからの要請もあったという。
シャナを乗せた帝国魔導船は、沖合で合流。
何事もなく帝国に戻ることができた。
レイニは魔導船に移り、シャナと護衛の騎士と共に宮殿へ向かった。
二人が通されたのは、応接間だった。
部屋にはすでに招集された者達がそろっており、二人が最後だった。
皇帝ランガス・ドムドールを始め、帝国の重鎮達に騎士団副団長、ルース・ツィーグラー。
そこにレイニとシャナと護衛が加わった。
「おかえりなさい。休む間もなくて大変ね」
声をかけてきたルースの横の席が空いている。
皇帝が座るよう指示したので、レイニとシャナはそこに腰を下ろした。
皇帝はそろった面々を見渡すと、まず街での騒動を収めたこととして副団長を労った。
それからレイニに、どこまで知っているかを尋ねた。
「ここに来るまでの間に、護衛の騎士からおおまかなことは聞きました。ですが、わからないことがあります。歪んだ魔力とはいったい何ですか?」
「歪んだ魔力とは、負のエネルギーに侵された水の魔力のことだ。それはもともと存在していた──継承者や魔力の高い者が遺した負の感情などだ。だが、大洪水で亡くなった多くの人達の嘆きや苦しみが合わさり、さらに魔力を歪めてあふれ出したと考えている。そして動植物や我々人間に悪影響を及ぼした……」
歪んだ魔力は燃える島に集まっているという調査報告が出たが、そこから発生しているというわけではないようだと推察が併記されていた。
集められたことにより濃度が増し、生物に害を与えている。
「燃える島に集まった歪んだ魔力が、地下水や生物を通して本土に流れてきたのだろう」
「魔力が高かったために取り込まれてしまった人──トゥーニャは、魔導砲の力で助かったわ。スラム街も、多くの人達の尽力とシャナとアーリーのおかげでね」
皇帝の言葉にルースが付け足した。
レイニはそれらのことを頭の中で整理すると、一つの結論を導き出した。
「つまり、水の魔力を鎮めなければ、いつまた今回のような凶事が起こるかわからないということですね」
皇帝は重々しく頷く。
「早急に水の魔力を安定させたい。祭具は貸してもらえたか?」
「はい。アルザラ1号に厳重に保管してあります」
今頃はリモス村に着いているだろう。
「儀式にはシャナとセゥ、それからもう一人、山の一族の女性が同行します。これまでの探索で、水の魔力の吹き溜まりの場所の目星はついています。航海の指揮は私が執ります」
「よろしく頼む。ルース姫、レイニ殿と協力して箱船の準備を進めてくれ」
「了解しました」
ルースは感情の色のない声で答えた。
箱船は、もともとそのために造られた船だ。
しかし、そこに関わる人々の事情は変わってしまった。
(間違いなく、そこには歪んだ魔力が集まっている)
もしかしたら、燃える島の比ではないほどの歪んだ魔力に満たされているかもしれない。
それでも魔力の暴走を鎮められたとして。
(箱船は、乗組員は戻ってこれるのかしら……あの子は……)
リモス村にいる、ベルティルデ・バイエルは今頃何をしているだろうと、ルースは無性に会いたくなった。
●スタッフより
【川岸満里亜】
構成、データー処理担当の川岸です。
ワールドシナリオ前編全5回にご参加&ご覧いただき、ありがとうございました。
兎に角意外な展開となりました……。
後編は反省点も踏まえ、違った形で行えればと思っております。
近日中にゾーンシナリオとの共通のエピローグを公開いたします。
その後に共通の後日談シナリオを行いたいと思っておりますので、そちらもどうぞよろしくお願いいたします。
何人かのPCさんにつきましては、そちらのマスターコメントで、状況などをお知らせいたします。
【冷泉みのり】
こんにちは。リアクションの一部とエピローグを担当しました冷泉です。
ワールドシナリオ前編は、これで終わりです。
全話に参加してくださった方も、そうでない方も、ありがとうございました。
後編も全力で行きますので、どうぞよろしくお願いいたします。
【東谷駿吾】
なかなか激しい戦いとなったワールド前半ですが、ここで一区切りとなりましたね……。
後半はどうなるのか、私自身とても楽しみです。
少し時間は空いてしまうようですが、ぜひ引き続きよろしくお願いします!
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