カナロ・ペレア後編 プロローグ

 

●水の誘い
 秋も深まり、落葉樹がすっかり色づいた頃のとても穏やかな天気のある日。
 水が流れ落ちる崖の上に、チェリア・ハルベルトはたった一人で佇んでいた。
 いつもの覇気はなく、ただぼんやりと、崖下に落ちていく水の流れを眺めていた。
 その時、どこからともなく赤い瞳の少女が現れた。
 チェリアは特に驚きも警戒もせず、ただ茫洋と少女を見ている。
 ふと、その瞳が揺れた。
「母様……」
 少女の手が差し出され、チェリアはその手を取った。
 少女は崖の淵へ進み、チェリアもそれに続く。
 海へと落ちてゆく水。
 視線を上げれば、はるか沖合に船影が見えた。
 チェリアと少女は、そこから忽然と姿を消した。

●地の一族の決意
 その翌日、グレアム・ハルベルト皇帝から呼び出しを受けた。
 彼の体力は順調に回復し、もう日常生活に支障はない。剣の鍛錬も少しずつ再開している。
 グレアムが呼ばれた先は、謁見の間ではなく皇帝の自室であった。
 人には聞かせられない話に違いないと、グレアムは緊張した。
 予想通り人払いがされていて、部屋の外に控えている護衛等がいない。
 来訪を告げると、すぐに入室許可の返事がきた。
 室内には、皇帝だけがいた。……皇帝を任されているルーマ・ベスタナの方だ。
 彼の表情から、これはかなり厳しい内容の話になると察し、グレアムは気を引き締めた。
「グレアム、貴公に頼みたいことがある。だが、その前に現状の説明をする」
 かけたまえ、とソファを勧められるグレアム。
 向かい合って腰かけたグレアムに、皇帝はまず、ミサナ・スヴェルダムの脱走を許してしまったことを告げた。
 ミサナとは、海賊のボスを操っていた女性で、皇帝の傍近くに仕えているラダ・スヴェルダムの妹である。捕らえられてからは、宮殿の一室に軟禁されていた。
「行き先は……?」
「わからない。だが、脱走には何者かの手引きがあったと思われる」
 それについても現在調査中である。
「それと彼女の様子から、姿に変化はなくとも、すでに歪んだ魔力と完全に同化したと考えている」
「もしかして、海賊と共にいた時から?」
 グレアムの推察に、皇帝は深刻な表情で頷いた。
 動植物が歪んだ魔力と完全に同化するということは、魔物化するということだ。
 同化し、心身が別のものに変わってしまった場合、元に戻す方法は存在しない。
「元は水属性で、継承者の一族の能力は持っていなかった。だが、今は地と水の一族の力を持っている」
「……ハーフとは、そういうものなんですね。たいした能力です」
 グレアムは皮肉げに呟いた。
 それと引き替えに、破滅への衝動とでもいうものに心を奪われるのかと思うと、気が滅入ってくる。
 悪い知らせは、それだけではなかった。
「チェリアも姿を消した」
 グレアムは息を飲んだ。
 彼女とは数日前に会ったばかりだ。
 何か考え込んでいる様子ではあったが、それは燃える島での一件を憂いているからだとグレアムは思っていた。
 実際、グレアムが目覚めた時の彼女は、そのことで苦しんでいた。
 けれど、チェリアなら立ち直ってくれると信じていたし、そうあってほしいとも思っていた。
「どうして……」
「心当たりがないわけではない。チェリアの有能さはもちろん、その力も手放したくなかったんだが……」
 チェリアの特殊能力は、対象の人物の潜在魔力を引き出したり、内在する魔力を融合させて引き出すというものである。
 ランガスをより確実に世界を統べる王にするためには、彼女のその能力が必要だった。
 今はまだ弱い力だが完全なものとなった時に、どのような効果を発揮するのか。
 それを見極めるため帝国の重鎮と魔法研究者達は、チェリアが歪んだ魔力を吸収し、能力が高まっていくことを注意深く観察していた。
 これを聞いたグレアムの表情が硬くなる。
「チェリアで、実験をしていたのですか……?」
 彼の口調には、わずかに棘があった。
 皇帝は静かにそれを否定した。
「そうではない。我々は、知らねばならないからだ。水の魔力の暴走には、何かある。何か──人為的な……意思のような……」
 水の魔力の暴走は、旧王国の強引な兵器実験の失敗が原因と言われている。
 それが自然に鎮静することなく、逆に勢いを増していることは異常と言っていい。
「グレアム、その正体を掴むために、調査に行ってほしい」
「燃える島ですか、それとも水の魔力の吹き溜まりですか?」
 燃える島には歪んだ魔力が集まり、水の魔力の吹き溜まりは恐らく暴走した水の魔力にあふれている。
 皇帝は、燃える島を指示した。
 そして、グレアムの首にかけられたネックレスを指して、厳しい眼差しで言った。
「貴公の精神を、その中に封じる。その後、皇族の能力で体を操り、燃える島に送り出す」
 歪んだ魔力に満ちた燃える島へは、通常のままでは立ち入れない。ハーフや魔力が高い故に歪んだ魔力の影響を受けやすい者は、たちまち正気を失ってしまうからだ。
 だが、精神がからっぽであるならば……。
「魔力を歪ませているのは、魔力の中に残る生命の意思のようだ。大洪水発生の真相ははっきりとはしていない。発生地点と思われる水の魔力の吹き溜まり――もしかしたら、そこには知的生命体がいるかもしれない」
「それが、この地に歪んだ魔力を集めていると? それはつまり……この国を狙っているということですか?」
 グレアムは、かつて帝国の敵対国とされていたウォテュラ王国の生き残りを意識した。
 しかし、ほとんど面識はなくても宮殿にいるルース姫や、王国との繋がりがあったマテオ民達が何かしているという報告は聞いたことがない。
 スヴェルや協力者にもマテオ民はいたが、怪しい素振りはなかった。
 それなりに人を見る目は養ってきたつもりだ。
 だからこそ、彼らを帝国民と同じ大洪水の被害者だと認識した。
 皇帝も、彼らではないと思っている。
「人間かどうかもわからない。それを、突き止めるのだ」
「──わかりました。歪んだ魔力を導く存在……必ず見つけ出します」
「相手は単体か複数かもわからない。だが、もし歪んだ魔力を掌握している存在を見つけた時は、その者の懐に入り込め」
 グレアムは、覚悟した目でしっかりと頷いた。
「チェリアも、そこにいるかもしれん……」
 彼女もハーフだ。歪んだ魔力に影響されやすいのなら、引き寄せられていてもおかしくない。
「燃える島に行けば、歪んだ魔力に完全に侵されるだろう。グレアムも、ミサナのような力を得るはずだ。そして、貴公の目を通して得た情報を元に、我々は真の敵に戦いを挑む。その際、我らはおそらく対峙する」
「それも覚悟の上です」
 精神を封じられたグレアムは、前回のように自分を抑えることはできない。
 両者は全力で衝突することになるだろう。
 ここで重要なのは、帝国側が勝たなければならないということだ。
 それも、できればグレアムの体を残したまま。
 体が消滅していなければ、ネックレスに封じ込めた彼の精神を、体に戻すことができる。
「精神を戻した時に正気でいるかどうかはわからないが……グレアムには、多くの慕う者がいる。その者達が目覚めさせてくれることを祈ろう」
 それはどうだろう、とグレアムは苦笑した。
 自分を信じてくれていた団員達を大勢傷付けたのだ。恨まれていても不思議ではない。
 もしグレアムが命を落としたとしても、体が残っていれば、ラダがその体の記憶を視てくれるはずだ、と皇帝は言った。
 ラダの力も高まっているという。
 皇帝は、グレアムに本当にこの任を受ける覚悟があるのか見極めようと、じっと彼の目を見つめた。
 グレアムは、皇帝の強い視線を静かに受け止める。
「兄……陛下を、必ず世界を統べる王にしてみせます。どうか、民を導いてください」
 グレアムは、ずっと肌身離さず身に着けていたネックレスを皇帝に託した。


 密かにエルザナ・システィックの部屋を訪れたランガスは、ルーマがグレアムから預かったネックレスを彼女に差し出した。
「これは、確かグレアムさんの……」
 躊躇うエルザナに、ランガスはこれからのことを説明する。
「ここに、グレアムの精神を封じ込めることになった」
 たったこれだけの言葉で、エルザナは自分の役割を理解した。
 今、このネックレスには皇帝の双子の姉であるセラミスの精神が封じられている。
 正確には、ネックレスに嵌め込まれている特殊な石の中に。
 この世界で唯一の特殊な石には、一つの精神しか封じることができない。
 これからグレアムの精神を移すとしたら、先にあるセラミスの精神をどうにかしなくてはならないのだ。
 その器として、エルザナが選ばれた。
 ただし、融合の能力を持つチェリアがいないので、一時的にエルザナの中に預かる形になる。
「君の中に留めておけるのは、数ヵ月程度だろう。それまでにチェリアを取り戻す」
「……もし、取り戻せなかったら?」
「ネックレスからグレアムの精神を開放し、セラミスを戻す」
 エルザナの瞳が悲しみに揺れた。
 しかし、それは一瞬のことで、ネックレスを受け取ってランガスを見上げた時には、静かに決意した目をしていた。
「チェリアさんが戻ったら、私はお義姉様になるのですね?」
「そうだ。すまない……」
「義兄さま──いえ、陛下。どうか、世界を、私の大切な人達を、護ってください。……微々たる力ですが、私も、ともに護らせてください」
「ああ。力を貸してほしい」
 エルザナは、手の中のネックレスを握りしめた。

●秘めたる決意
 大洪水直前に、アルザラ港から出航した避難船――海賊船として使われていた船に、レイニ・ルワールは、アルザラ1号の船員たちを伴い、訪れていた。
 本土の海岸に泊められ、修理されたその船を操縦して開拓地リモスの海岸に運ぶのだ。
「個室、少ないわね……貨物船だもの。この船で、あの子はどんな生活をしていたのかしらね」
 娘、リッシュ・アルザラの面影を探す、レイニ。
 傷ついた船内。クローゼットの中の、女性ものの服など、目にするもの全てが、レイニの胸を締め付けていく。
 だけど顔には出さない。
 娘が海賊の一味を率いていた。海賊は航海士にとって、忌むべき敵。レイニ自身、海賊に襲われた辛い過去もあり、傷跡や軽く障害も残っている。
 直接犯罪行為はしていないにしても、自分の娘が海賊と呼ばれる存在だったなんて信じたくなかった。
 自分が生きるために、罪もない人から奪い、犠牲にする。それを容認し、そんな人たちを仲間と慕っていたのだろうか。
 そんな娘に、自分は育ててしまったのだろうか……。
 強い瞳で、レイニは船内を見て回ると、レザン・ポーサスと共に操縦室へと向かった。
「この船は、あなたが中心となり、操縦するのよ。私はアルザラ1号に乗り、水の魔力の吹き溜まりがあると思われる場所に、皆を導くわ」
 アルザラ1号に続いて、箱船と、箱船のサポートのために、この船もまた水の魔力の吹き溜まりへと向かうことになっていた。
 暴走した水の魔力を鎮めに、水の魔力の継承者であるルース姫が向かうことになっている。
 だが、暴走した水の魔力だけを鎮めても、世界に在る歪んだ魔力が消滅するわけではないだろう。
 アルディナ帝国と、アトラ島のメンバー、マテオ・テーペの代表たちが話し合い、歪んだ魔力を消し去り、世界を安定させるために、立ち向かう団が結成されることになった。
 既に存在する、帝国のガーディアン・スヴェルの姉妹団体として、出資者のハルベルト公爵により、その団はストラテジー・スヴェルと名付けられた。
 アルディナ帝国の代表は、ハルベルト公爵家の長男グレアム・ハルベルト。マテオ・テーペの代表は、メイユール伯爵の娘ジスレーヌ・メイユール
 そして、アトラ島の代表は、レイニ・ルワールが務めることになっていた。
「けどいいのか? 勝手に代表やること決めて。旦那怒るんじゃ?」
「仕方ないでしょ、適任者がいないのだから! それに、彼にはリモス村で医者としてすべきこともあるだろうし……息子のもとに帰ってもらわなければならないから、連れて行きたくない」
「なんか自分は帰らないような言い方だな?」
「……多くの人々を飲み込んだ、大洪水。その膨大な魔力を鎮めようというのよ? 20年に一度の、風の魔力の暴走の比ではない……犠牲が出るかもしれない」
 そう呟いて、海の向こうを眺めるレイニを、レザンは複雑な表情で眺めていた。
「……だから見るなって言ってんでしょ!」
 ドカッとレイニに殴られるまで。

 この時、まだ2人は知らなかった。
 ハーフが歪んだ魔力の影響を受けやすいということを。
 そして帝国の要人も知らなかった。レザン・ポーサスがハーフであることを。