マテオ・テーペより訪れし者 オープニングストーリー

 

 今から約5年前、世界は海に飲み込まれた。

 地上のあらゆる生き物が滅亡したと思われたが、海の中の深いところに水の魔術による障壁を張って生き延びた人々がいた。

 かつてのコーンウォリス公国の一部だ。

 生き残った人々は伯爵の指揮のもと箱船計画を遂行し、150人から160人ほどの人員を乗せて海上調査へ出航した。水の障壁の維持には限界があるため、陸地が残っているのか調べるのは急務であったのだ。箱船には、水の魔術に長けたウォテュラ王国のルース・ツィーグラー姫と侍女のベルティルデ・バイエルが同行していた。

 

 出航から数ヶ月後、箱船は一隻の小型船と遭遇した。

 小型船はアルディナ帝国のもので、箱船にウォテュラ王国の姫が乗っているとわかったとたん態度を硬化させた。

 彼らは、世界を滅ぼした重罪人として姫を拘束しようと武器を向けてきたのだ。

 一触即発の事態は侍女の機転で回避できたが、代わりに水の継承者であるルース姫はその命を世界の安定のために捧げると誓うことになった。

 また、姫の命の代償には海底に残された人々の命の安全も含まれており、帝国は彼らの移住地を用意すると約束した。

 こうしてルース姫とその護衛、世話役を含めて十名ほどが小型船に乗り移り、先に帝国へと渡った。

 

 箱船に残されたベルティルデ達は、このことを報告するために海底のマテオ・テーペへと帰還した。

 彼女達は伯爵との面会時、マテオ・テーペの現状についても確認した。その結果すぐに帝国へ向かうことはできないと判断し、最初の出航時同様に時間をかけて物資も新たな人員もしっかり準備を整えてから再び帝国を目指した。

 

 

 帝国暦1999年晩冬──

 ベルティルデ達を乗せた箱船が帝国に到着した。

 かつては広大な面積を誇った帝国も大洪水の脅威にさらされ、今では半径約3キロメートルのほぼ円形の土地を残すのみとなっていた。

 もともとは高地であったためか円周のほとんどが急な崖になっている。

 箱船が停泊を許されたのは本土からやや離れたところにある小さな島だった。一見したところ、何もないと言っていい島だ。

 ベルティルデ達はそこで降りるように言われた。

 質素な身なりの島民達が遠巻きに見守る中、箱船を先導していた兵士の一人が、進み出てきた身なりの良い女性に挨拶をしている。

 彼女は兵士からの報告に何度か頷き、時折ベルティルデ達へ目を向けていた。

 また彼女の後ろには隻眼で目つきの悪い男性と、おどおどとした落ち着きのない少女が控えていた。特に男性の方はベルティルデ達を見極めようとするような目をしていた。

 やがて話が終わり、戻ってきた兵士が言った。

「貴族の方々とルース姫の侍女、それから使用人のみを本土に案内する。その他の者は沙汰があるまでここに残るように。これは皇帝からの命令だ」

 なぜここに船を泊めたのか、ベルティルデ達はようやく理解できた。

 抗議しようとする仲間達を制し、ベルティルデは命令に従うことを告げる。そして彼女は仲間達をまっすぐに見つめて言った。

「今は辛抱です。大丈夫、きっとまた再会できます。ですから、どうか短気を起こさずにここの皆さんと仲良くしてください」

「みんなのことは私に任せてください」

 伯爵の娘だがこの島に残ることに決めたジスレーヌ・メイユールが気丈に返事をした。十五歳の女の子に言われては、他の年長者達は黙るしかない。

 そして箱船もここに残し、ベルティルデ達は帝国の小型船で本土へ連れて行かれた。

 不安げに見送るジスレーヌ達に、身なりの良い女性が近寄って来て挨拶をしてきた。

「はじめまして。この島の管理を任されているインガリーサ・ド・ロスチャイルドと申します。ご覧の通り何もない島ですが、よろしくお願いしますね」

 明るく優しそうな人物だった。年齢は三十代前半といったところか。身分は子爵だという。彼女の微笑みにジスレーヌ達は少し安堵する。

 続けて彼女は後ろの二人も紹介する。

カサンドラ・ハルベルト
カサンドラ・ハルベルト

「この子はカサンドラ・ハルベルト。ハルベルト公爵の次女です。訳あってここで一緒に暮らしているの。ちょっと恥ずかしがり屋だけどいい子よ。仲良くしてあげてください」

 カサンドラはインガリーサの背に隠れようとがんばっていたが、結局押し出されてしまった。長めの前髪の隙間からのぞく目は、戸惑うように新たな住人達を見ている。

「カ、カサンドラ・ハルベルトです……よろしくお願いします……」

 とても小さな声でボソボソと自己紹介をしたきり、彼女はうつむいてしまった。顔がよく見えず小柄な彼女の年齢は多く見積もっても十代半ばか。

 最後に隻眼の男性を紹介しようとしたインガリーサだが、先に男性のほうが口を開いた。

サク・ミレン
サク・ミレン

「サク・ミレンだ。この脳天気女が言わないから言っておく。この島は罪人が流される島だ。お前らがここに置き去りにされた理由は察することができるだろう」

 緩みかけた空気が強張った。

「世界を水没させた王国の姫もその連れも、ここでは憎しみの対象になる。下手な騒ぎなんか起こすなよ。もし起こしたら地下牢にぶち込んでやるからな」

 脅しではなさそうなことはサクの表情から感じ取れた。

 すっかり冷え込んでしまった場の空気は、インガリーサの明るい声で温度を取り戻した。

「サクは人を緊張させるのが趣味なの。あ、彼はここの人達の監督を任せています。悪い人ではないから、彼とも仲良くしてくださいね」

 サクは肩を落としてため息を吐くと、不機嫌もあらわに舌打ちしてみせた。ちなみに彼の年齢は二十代後半だろう。

 その後はインガリーサにこの島での住居を案内された。マテオ・テーペから来た彼らはまとまった場所に長屋を用意されていた。狭くて質素なつくりは他の住居も同様だ。室内にはベッドと小さな机と椅子があるだけだった。

 それから彼らはこの島の生活について説明を受けた。

 ここは開拓地リモス村と呼ばれておりほぼ自給自足である。やせた畑と浅瀬での漁で日々の糧を得ている。漁に船の使用は認められていない。逃亡防止のためでもあるが、島の周りは潮の流れがきつく海水が渦を巻いているので危険だからという理由もある。

 ただし本土側の浅瀬は干潮時のみ波が落ち着き、本土と島をつなぐ細い一本道が現れる。この道を利用して必要物資などが運ばれている。当然見張りの兵士もいるため、逃亡は不可能である。

 流刑囚達に課された労役として、島の鉱山にある鉱石の採掘がある。貴金属のほか、帝国でここだけから採れる貴重な魔法鉱石があるのだ。罪人達は毎月一定量を帝国に収めるよう言い渡されている。

「何かわからないことがあったら遠慮なく言ってくださいね」

 インガリーサは、この島の過酷な環境では場違いとも思えるあたたかい笑みを浮かべた。

 

 

 一方、ベルティルデ達は本土中央にある宮殿に連れて行かれていた。

 案内された部屋で彼女はルースと再会する。

 お互いの無事を確認できた二人は安堵し、喜びを分かち合った。

「他の皆さんは元気にしていますか? アーリーさんは?」

「みんな元気よ。アーリーは……皇帝の第二妃にと求められたわ」

 ルースの返事にベルティルデは驚きの声をあげた。

「彼女は、それを了承したの。理由はわからないけど、たぶん好きな人達を守るためだと思う」

 アーリー・オサードは火の特殊な力を持っている。皇帝はそれに目を付けたのだろう。

「そんな……好きな人達を守るために、好きでもない人と婚姻を結ぶだなんて……」

「正式な婚約発表はまだ先よ。それまでに何とかできればいいけれど。でもね、アーリーの心配ばかりしていられる状況でもないの。明日、皇帝と面会するわ。その時にマテオ・テーペの人達の一刻も早い避難の助力を請うのよ」

 ルースから示された次の課題に、ベルティルデは気持ちを引き締めた。

 

 そして翌日。

 二人はアルディナ帝国皇帝ランガス・ドムドールと面会した。

 大洪水の際、この高地と近隣の住人にいちはやく避難を呼びかけて守り抜き、その後の混乱も乗り越えただけあり強い意志を感じさせる人物であった。

 飲み込まれまいと、ベルティルデは背筋を正す。

 ランガスはベルティルデのほうを見て言った。

「貴女が王女であったそうだな」

 箱船が帝国の小型船と遭遇した時、ルースの提案で二人は以前のように立場を入れ替えて名乗った。それはルース達が宮殿滞在中にささいなことからばれてしまったが、ランガスは特に咎めることはしなかった。

「その件については非礼をお詫びします。こちらにも事情がありましたので」

「わかっている。それよりも余が問いたいのは聖石のことだ。あの忌まわしき大災害が起こった日、貴女は暴走した水の魔力を安定させるためにかの地で待機していたのではないのか? それなのに、その役目を放棄した」

「放棄はしていません」

 責めるような口調のランガスに対し、ベルティルデも強い口調で返す。

「マテオ・テーペに閉じ込められた人々も助けたいと思ったのです」

「情でも移ったか」

「危機に瀕した命を助けたいと思うのは、人として当然のことです」

「それで、マテオ・テーペからすべての住人が脱出できるには何年かかるんだ?」

 ベルティルデは口をつぐんだ。痛いところを突かれた問いだった。

 マテオ・テーペから帝国まで、約1ヶ月かかる。約半年後に完成予定の二隻目は一隻目よりは大型だが、残っている人数から単純計算しても全員脱出には2年以上はかかってしまうだろう。その間、箱船の動力となっているために消耗の激しい魔術師は減るだろうし、船体やもう一つの動力の魔法具の耐久性の問題、さらには聖石の寿命の問題もある。

「貴女達が浪費している聖石の元となった魔法鉱石は、およそ2000年前に火の王により集められた火の魔力。いわば火の継承者の命だ。何を優先するべきか、貴女にわからないはずはあるまい」

 追い打ちをかけてくるランガス。

 それでも目を反らすことをしなかったベルティルデだが、膝の上ではきつく拳を握りしめていた。

 早急な世界の安定のためにマテオ・テーペの人達を切り捨てろと暗に言うランガスに、ベルティルデはどうしても頷けない。

 頷けない代わりに、深く頭を下げた。

「皇帝にお願い申し上げます。貴国の船と魔術師を、マテオ・テーペのために貸してください。残された彼らは何の罪もない人々です。どうかお願いします」

 ベルティルデの隣では、ルースも同様に頭を下げている。

 しばらくして、ランガスから返ってきたのはため息だった。

「世界を水没させた原因は、王国の軍事実験によるものだったな。我が帝国の民なら子供でも知っていることだ。故に、王国の者には深い憎しみを抱いている。余の命令であっても、それが叶うのは難しいであろう。ましてやマテオ・テーペは元は王国と繋がりのある公国。真実はどうあれ罪人も同じだ。そもそもこの地は元は高原だったため、船は使われてこなかった。貴女達を乗せてきた小型船を造るのがせいぜいだ」

 大洪水前の帝国にも海に面した地域はあった。しかし今の帝国には造船技術を持った者はおらず、また航海術等海の知識に明るい者もいないのである。

 絶望に侵食されていくベルティルデに、ランガスはとどめを刺すように続けた。

「余にもなすべき使命がある。神力を用いて大地を正常に戻し、民に豊かな暮らしを与えることだ」

「神力……?」

 思わず声が出てしまったルース。

 ランガスはおもむろに袖をまくると、明らかに特殊なものとわかる痣を見せた。

 ベルティルデとルースはハッと息を飲む。

 大洪水からどうやってこの一帯を守ったのか、二人は理解した。

 袖を戻したランガスは、ある提案をベルティルデに示した。

「継承者の使命など知らぬ国民は、重罪人である王女の即時処刑を望んでいる。だが、もし貴女が自らの使命を果たし水の魔力を安定させたのなら、その功績に報いて無罪としよう。またマテオ・テーペに残った人々の救出にも協力しよう。逆に、貴女が使命を果たさず逃げだした時、または途中で力尽きた時は、彼女に王女として断頭台にあがってもらう」

 彼女とはルースのことだ。

 もとよりベルティルデに使命を放棄するつもりはない。

 そのことを伝えると、ランガスは水の魔力を安定させる儀式の際に必要な、特殊装置のための魔法鉱石やそれを加工する技術と技術者、さらに箱船に乗ってきた者達の当座の仮住まいを提供すると約束した。

「魔法鉱石は流刑地である島でしか採れない。開拓地と呼ばれている。しかも採掘場への入口は引き潮の時にしか姿を現さなくてな……だが、姫の力があれば自由に出入りできるようになるだろう。つまり、貴女方には再び入れ替わってもらうということだ」

「私は人質ってわけね」

 棘のある口調になってしまったが、今は仕方がないとルースは屈辱に耐えた。

「いいでしょう。その条件を飲みましょう」

 水の魔力の継承者であり王女でもあるベルティルデは、本名のルースではなくこれまで通り侍女のベルティルデとして力を尽くすことになった。

 最後に、儀式は約半年後に行われることが決まった。

 

 

 こうして、ルースは王女として宮殿に留まることになり、また他には数人の友と貴族身分の者達が共に暮らすことになった。さらに、島に待機させられていた箱船の乗員達は正式に難民と認められ、主に開拓地リモス村で生活を始めた。中には傭兵として騎士団に加わる者やハルベルト公爵が設立したガーディアン・スヴェルに身を置く者もいた。

 リモス村に戻ったベルティルデは、ジスレーヌ達に宮殿でのことを報告し、インガリーサに改めて挨拶をしたのだった。

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