カナロ・ペレア後編 1~2
その日、ジスレーヌ・メイユールは宮殿を訪れていた。
案内の騎士の後について謁見の間へ向かう彼女の表情は厳しい。
やがて現れた重厚な扉が開かれ一歩踏み込むと、左右にずらりと武装した帝国騎士が並んでいた。
威圧的な迎え方にジスレーヌは息を飲むも、弱味は見せまいと背筋を伸ばした。
一番奥に皇帝ランガス・ドムドールが、左右に重鎮を控えて玉座に着いている。
丁寧に礼をしてしばらくすると、問答を許された。
ジスレーヌが皇帝を訪ねた理由はただ一つ。
マテオ民の救済だ。
「──もうじきマテオ・テーペの障壁を支えている聖石の寿命が尽きると聞きました。陛下にお願いがございます。どうか、残された民の救出が終わるまでの間、魔石をお貸しいただけないでしょうか。箱船に、届けてはいただけませんでしょうか」
必死に訴えるジスレーヌに答えたのは、重鎮の一人だった。
「そなたは、今の帝国の状況をご存知か?」
その声には、マテオ・テーペに残されている人々への同情があった。しかし、言葉はそうではなかった。
「地の神族の一人が命がけで作り出した魔石を用い、本土は歪んだ魔力の影響を受けにくくなっている。その魔石の力を引き出すために、別の地の神族の力が必要とされている」
ちなみにリモス村や燃える島は、宮殿の魔力塔から離れているため、この守りの力はほぼ届いていない。
「我が国の民はおよそ二万人。その命と引き換えにすることはできない」
もっともな話だ、とジスレーヌも思ってしまった。
もし逆の立場なら、きっと自分も彼のように言うだろうと。
あまりにも無策のまま来てしまったことを悔いたが、海底にいる人々を思うと居ても立ってもいられなかったのだ。
「約束通り、ルース姫が水の魔力を安定させたのなら、マテオ民の救出に協力しよう。話は、その後だ。その時の我が国の状況を見て、どのような協力を求めるのか考えておきなさい」
先ほどの彼の話から察するに、魔石の力で守られていても完璧ではないということだ。
じわじわと歪んだ魔力に晒され続けているのだろう。
崖っぷちなのは帝国も同じなのだとわかり、ジスレーヌは謁見の間から退室した。
外へ続く廊下をとぼとぼ歩きながら、ジスレーヌは箱船の本来の目的を思い出していた。
暴走した水の魔力を静め、地上に生き残っているだろう人々を救う。
元々、マテオ・テーペの人々の救済は考えられてなどいなかったのだ。
箱船が行き来するには、マテオの人々の生命力が使われる。そして障壁は狭くなる。
残されていた人々が出ていくたびに命の力は少なくなり、負担が増す。
行き来するほど、命が奪われていく。
そして、いつか限界がくる……。
(箱船では、みんなは救われない……でも……)
やり切れない思いに、ジスレーヌはきつく拳を握りしめた。
宮殿を出たジスレーヌは、ストラテジー・スヴェルの本部へ足を運んだ。
予定では、アルザラ1号が帰ってくる時期である。
もしかすると、あの人に会えるかもしれない。知恵を貸してくれるかもしれない。
本部資料室のドアを開けると、まさにその人──レイニ・ルワールが、今回の航海の日誌を読み返しているところだった。
「あら、来たのね……どうしたの、何かあったの?」
レイニは、沈んだ様子のジスレーヌに気づき腰を浮かせた。
ジスレーヌはレイニの向かいの椅子に座ると、宮殿での出来事を俯きがちに話した。
「私は、それでも諦めきれなくて……」
レイニは少しの間ジスレーヌを見つめた後、あえて厳しい表情を作って言った。
「若い貴女に話すのは酷だと思うけど、よく聞いてね。帝国は、マテオ民の救出を願うルース姫に約束をした。姫が、水の魔力を安定させたのなら、マテオ・テーペに残った人々の救出に『協力』すると。この意味を、よく考えてみて」
ジスレーヌは、レイニに言われた通りに帝国の『協力』が何を指しているのか考えた。
まず、これはもうわかっているが、今の帝国には箱船級の船を造る技術はない。船の提供は無理だ。
魔石は貸してもらえない。それを貸し出せば、帝国の民の命が危険にさらされるから。
「協力は、嘘……?」
「いいえ、嘘ではないわ。貴方は誰か忘れてない?」
「誰か……」
ジスレーヌが思い出せないのも無理はない。
面識はなく、慌ただしい中で名前とその顛末を聞いただけだったのだから。
レイニは、そんな彼女の記憶を引き出すため、順を追って説明した。
「水の魔力の調整時に起こる影響を考えて、魔導装置が作られたわよね。その装置の効果は、周囲への影響をできるだけ小さくするもの。つまり、中心地に対して周囲の人々を守るためのものであり、世界に悪影響を及ぼさないためのものでもあるの」
「……帝国の人々を守るため?」
「そうよ。そして儀式の後、箱船は急ぎマテオ・テーペへ向かう。二隻目の箱船を送り出すためにね。帝国にとっては、これも重要なことなのよ。水の継承者の一族がすべて滅んでしまっては、世界に未来はないから」
あ、とジスレーヌは小さく声を上げた。
思い出したのだ。もう一人の──。
彼女の表情を見て、レイニが頷く。
「サーナ・シフレアン……水の継承者の一族だったわね。二隻目の箱船には、彼女が乗っているはずよ。障壁を作っている魔法具を支える聖石の力を引き出せるのは、継承者の一族のみなのでしょう?」
彼女がいなくなれば、聖石の力が失われなくても障壁は維持できなくなる。
一族の中でも痣のある者は、聖石──魔石──の真の力を引き出せるが、痣のないサーナでも障壁を維持するくらいの力は引き出せていた。
水の魔術師達は、その彼女を失うことを承知でマテオ・テーペに戻る覚悟をしているのだ。
とても考えたくない現実に、ジスレーヌの体が震えた。
「帝国は、水の継承者の一族救出までは本気で力を貸してくれるでしょうけど、そこまでよ。このことは、あなたのお父さんにも連絡が行っているはず」
そんなの知らない、とジスレーヌは目を見開く。
それもそのはずで、この話は宮殿から水の魔術師がリモス村に報告に来た時に、ベルティルデだけに告げられた内容だからだ。
つまり、ベルティルデも承知していたということだった。
「お父様なら……きっと、もっとうまく帝国から協力を取り付けられたでしょうね……」
「そうね……。私達のほうに政治的な立ち回りができる人がいたら、違っていたかもね……。悔しいけど、私にも彼らを相手にできるほどの交渉術も、時間もないわ。ここが守られれば、皇帝が世界を救ってくれる……そう信じるしかない」
「どうでしょうか……帝国にとって、世界とは、帝国だけかもしれませんよ。死にかけているなら必要ないだろうと、奪い取ろうとするような人達ですから。……すみません、少し、頭を冷やしてきます」
目に涙をいっぱいためて、ジスレーヌは資料室から出ていった。
レイニは椅子に深く腰掛け、疲れたように長いため息を吐いた。
ジスレーヌに冷たい人だと思われても、言わなければならないことだった。
すでに世界の大半が滅んでしまっているこの状況下で、一人の継承者が儀式を行っただけですべてに決着がつくとは考えにくい。
水の魔力を暴走させているという『何者か』の存在があるからだ。
グレアムはすでにその者のところへ先行している。
ストラテジー・スヴェルもその戦いに身を投じ、命を賭して帝国やその他地域──現状、人が確認されている地上はアトラ島のみ──を守ることになるだろう。
その戦いに必要な道具の開発も進められている。
ただし、ストラテジー・スヴェルは出資者こそ貴族であり、メンバーに帝国騎士もいるが、組織としてはボランティア団体である。ここで行われる作戦は、帝国の作戦ではない。
帝国の組織である帝国騎士団は、帝国を守るために本土で活動をする。
「せめて、本土が安定していたなら……」
もっと帝国は動いてくれただろう。
☆
氷の大地に、氷の壁が張り巡らされた場所がある。
その内側は歪んだ魔力の濃度が非常に高い。常人なら十分ともたず気が狂ってしまうだろう。
そこに貴族の住まいのような館があった。
「よく来たね、グレアム・ハルベルト」
館の広間は、さながら王宮の謁見の間の装いだ。
玉座の主がグレアムに声をかけると、跪いたままのグレアムは「はっ」と短く返し、頭を垂れた。
グレアムの目に光はない。
玉座に座る黒髪で青い目の青年は、冷ややかな笑みを浮かべてグレアムを見下ろしていた。
「人間達がもうじき妹を連れて来てくれる。けど、彼女以外の、神の力を持たない者はいらない」
言い切った後、青年は何かを思いついたように足を組み替えた。
「……いや、仲間を増やそうか。魔物になってもらおう。完全な魔物になってもらって、同士討ちだ。それが簡単でいいね。その間に、僕はルースを迎えに行く」
「王の仰せのままに。新しき世界に、私達をお導きください──」
「もちろんだ。頼んだよ、僕達の騎士よ」
貴族趣味な内装の部屋のソファで、少女が大人の女性に膝枕をしていた。
フィーとチェリア・ハルベルト である。
フィーは、やさしくチェリアの髪を手で梳きながら、歌うように話していた。
「──私達は、アルディナ帝国に拉致されたの。無理矢理結婚させられ、子供を産まされた。でもね、先に帝国の要人を拉致したのは、ウォテュラ王国なの。王国は、王族の力を渡したくないために、わざわざ刺客を差し向けてきたわ。お母さん達は、帝国に騙され、祖国に捨てられた……」
チェリアは夢を見ているようなぼんやりとした目をしていて、話を聞いているのかわからない。
しかしフィーはかまわず続けた。
「どちらの国も、憎くて憎くて仕方がない。……だけど、子供達のことは愛してる。チェリア──チェリア、お母さんの悲しみ、わかってくれる? お母さんと一緒に、こんな悲しい世界、なくしてしまいましょう……」
チェリアの髪を梳くフィーの手に、チェリアの手が重ねられた。
チェリアは、大切なものを守るように、小さな手をそっと握りしめる。
「母様……あぁ、母様……」
チェリアの口から、懐かしむような吐息がこぼれる。
今、フィーの中には、すでに亡くなっているチェリアの母親の霊が降りてきている。
チェリアは、フィーの中に確かに母親を感じていた。
懐かしい思い出があふれた──。
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