『出立前夜』

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●中庭の鍋パーティー

「鍋パーティーだってよ」
 ウィリアムアーリー・オサードの横を、いつもよりも少しゆっくりと歩いていく。
「マテオの時のダチの鍋会みたいなもんだ。全員見知った顔だろうし、気楽に行こうぜ」
 アーリーはかなり不服そうな表情を浮かべていたが、ウィリアムの微笑みを見ているうちに、なんだか断ることが出来なくなってしまった。そして、「仕方ないから一緒に行ってあげるけど」とため息を吐いた。
 具材持ち寄りの鍋パーティー。宮廷の庭園はウィリアムの言った通りよく知った顔が並んでいた。ロスティン・マイカンエルザナ・システィックにがっつり腕を組まれて、ニヤけた顔をしている。マーガレット・ヘイルシャムウィリアムの身体検査を始めていた。
「……この肉は何ですか?」
「怪しい肉じゃねえよ」
「怪しいでしょう、こんな細切れのカチカチで」
「塩漬けにしてんだよ」
「何の肉をですか?」
「鶏みたいなもんだよ」
「みたいなってなんです?」
「食っても平気だったから」
「その言い方が既に問題じゃありませんか? ねえ、何の肉なんです?」
「……ネズミ」
「ネズミ!?」
 マーガレットとウィリアムが押し問答している間に、アーリーはロスティンとエルザナの前に進み出て、無言で持ってきた具材を置いた。
「誘いに乗るなんて思わなかったわ。珍しいわね」
「……気まぐれよ」
 ウィリアムが友人たちとどんな時間を過ごしているのか、見てみたくなっただけ。そう言わんばかりの態度だが……。
 ちらりとウィリアムを見る。マーガレットの手をすり抜けて、楽しげに例のネズミ肉を鍋に放り込んでいる。――彼は、私とのことを……。
「……そういやこの鍋、まだ火が付いてない?」
「え、マジ? アーリーさんお願いしまーす」
「ウィルがやれば?」
 ウィリアムの目を、アーリーは見つめ返した。素っ気ない視線に、ウィリアムは口を尖らせる。
「え、オレ? いや、いいけど……」
 ウィリアムは魔力を手先に集中する。木がパチパチと音を立て始め、やがて小さな火が起きた。
「よし……それじゃあ鍋パ開始だ!」
 ロスティンは号令をかけるとともに、後ろに控えさせておいた食材を一気に鍋の中へ。マーガレットは鍋の中からネズミ肉を引き上げながら渋い顔をした。
「あっ、ちょっと……変なものを入れてませんでしょうね」
「大丈夫だって。心配性だなぁ、マーガレットちゃんは」
 ロスティンが入れていたのは、厨房の雑用で少し分けてもらった魚やら野菜やら。ちょっと日は経っているが、そもそもの質が高い分、味の保証はできるはずだ。
「腐っても鯛、ってね」
「腐っているんですか?」
「違う違う。みんなに……」
 ロスティンの手を、エルザナが引く。
「エルザナちゃんにそんなもの食べさせるわけにいかないし」
 彼の言葉を聞いて、エルザナは満足気に微笑んだ。
「でも私平気ですよ? ネズミだって……」
 マーガレットのすくい上げている肉が目に入る。
「ドブネズミじゃなければ」
「エルザナちゃん、もっといいもの食べれるようになったんだから……」
 ロスティンは困惑気味に言うが、エルザナは「そうですか?」といたずらっぽく彼を見た。
「マイカン卿、このキノコは何ですか?」
「マッシュルームでしょ? よく分かんないけど」
「怪しい……」
「全部宮廷からもらってきたものだよ! 食べれないものはないって」
「……それでしたら……」
 マーガレットはようやく納得したようにうなずいた。
「もったいねえ」
 ウィリアムはマーガレットが取り出したネズミ肉を仕方なく棒に刺すと、鍋を温めている火に当てて焼き始めた。
「そういやお前は何持ってきたんだよ」
「私は頂き物のワインを」
 マーガレットは笑顔でワインのボトルを取り出す。
「なんでも公国産らしいのですが……手に入れるのはかなり困難でしょうから、本物かどうか」
「見た目は本物っぽいけどね」
 ロスティンが目を凝らす。
「一応今日は、本物ということでいただきましょう。皆さん、飲めますわよね?」
「もちろん。な?」
「ええ」
「エルザナちゃんも飲めるよね」
「はい、いただきます」
 ワインを注ぐと、5つのグラスがぶつかり合って、カランと甲高い音を立てた。
「なんだこの飲みやすいワインは……!」
「婦人でも飲みやすいフルーティーで軽い口当たり、と伺っていましたが、まさにその通りですね」
 口の内側で滑らかにほどけるような、上質な甘さ。全員そのワインの虜になり、鍋も出来ていないのに、すぐに2杯目に手を伸ばし始めている。
「……本当は、この場にサーナさんもいれば良かったのですが」
 マーガレットは少しだけ寂しそうに、そうつぶやいた。アーリーも、サーナ・シフレアンの名前に驚いたのか、何も言わなかった。

 エルザナは、ロスティンが彼女の分も食材を持ってきた、ということで何も特に持ってきていない。アーリーは野菜を中心に、鍋に飽きたらサラダも作れるようなものを持ってきている。
「やっぱ肉と酒だよな」
 さっきから焼いていたネズミ肉にかじりつくウィリアムを、マーガレットは渋い顔で見ていた。
「おやめなさいよ……変な病気になったらどうするんです」
「加熱してるから大丈夫だろ」
 エルザナはよく煮えた具材を取り分けて、ロスティンに手渡す。
「ん、ありがとうー」
 ロスティンはそれを受け取ったが、手を付けず、じっと彼女の顔を見つめた。
「どうしたの?」
「……いいや」
 いつになく真面目な顔になって、それからふっと吹き出した。ロスティンは立ち上がり、ごほん、と咳払いを一つする。
「えー、ワタクシから皆様に、ご報告がございます」
「ん?」
 ウィリアムは肉を噛み切って、ロスティンを見上げた。
「マーガレットちゃんは知ってるけど」
 マーガレットの顔に、柔らかな微笑みが浮かぶ。
「この度、ロスティン・マイカンエルザナ・システィックに、正式に結婚を申し込みました」
「おお、おめでとう」
「おめでとうございます」
 拍手が中庭に響いた。
「先々挙式もすると思うんで、その時はよろしく頼むな」
「……式か」
 ウィリアムが息を吐く。
「もちろん参加させてもらうが……どうせなら、終わった後のほうがいいんじゃないか?」
 エルザナの表情がやや曇ったのを見て、ウィリアムは「まあ、余計なお世話だな」と付け加えた。
「なあ、帝国だと、結婚式で友人に贈るものってなんだ?」
 全員の目がエルザナに向く。
「特には決まってないんじゃないでしょうかね? 花束を贈ることもありますし、ヤギをもらったおばさんの話も聞いたことがあります」
「ヤギは困るなあ」
 ロスティンは苦笑いして頭を掻いた。
ウィリアムも、さっさとアーリーと身を固めろよ」
「ッ!?」
 突然名前を呼ばれたアーリーは驚いて手元にあったワインを一気に飲み干す。
「ん、いるか?」
 ウィリアムはその様子に気付いているのか、優しい笑みでボトルを彼女に差し出した。
「……お願い」
 そしてまた半分ほど注がれたワインに口を付ける。
「でも、どうなんだろうなあ……出来る日が来るのかねえ?」
 ウィリアムはアーリーの顔を覗き込む。
皇帝のこともあるし……なあ?」
「知らないわよ」
「……顔赤いぞ」
「お酒の飲みすぎじゃない? あとは鍋の湯気」
「そうか?」
 ウィリアムの指摘に、アーリーはむすっとして答えた。
「マーガレットちゃんも、怪しい本書かずに結婚相手探したら?」
「怪しい本とは何のことですの?」
 マーガレットは堂々としている。
「私、『マテオ・テーペ回顧録』のような健全な本しか書いておりませんわ。変なことを言うのはやめていただけませんこと?」
「はいはい」
「それにまあ、私は……いつの日か皆さんの子供や孫に私の本を勧めて貰えれば、それで十分ですわ」
「『マテオ・テーペ回顧録』は勧めさせてもらうことにするよ」
 ふっ、とロスティンが笑う。
「……ああそうだ、皇帝の側室もありなんじゃないの? アーリーを忘れるくらいに……ってな具合で」
「陛下とはお会いしたこともありませんから。皇妃様とはお話しさせていただいたこともありますけど」
「だからこそ誘惑し甲斐があるんじゃないか。ねえ?」
 鍋の中身が減ってきたのを見て、ロスティンは手元からパンを取り出す。
「おっ、締めにパンか。いいな」
「だろ?」
 ロスティンはウィリアムにパンを手渡す。それにかじりつこうとするウィリアムを、マーガレットが止めた。
「ちょっと待ってください。それ、大丈夫なパンですか?」
「大丈夫な、ってなに?」
「カビが生えていないかの確認です」
「大丈夫だって、数日前のパンだけど」
「……」
 マーガレットは怪訝な顔でロスティンを見るが、彼はどこ吹く風である。
「……念のため、没収です」
「え」
 ウィリアムからパンを取り上げ、後ろのテーブルの上に置いた。
「体は大事になさってください……あなた一人の体ではないのですから」
 アーリーはむすっとした表情で顔を逸らした。その顔はまだほんのりと赤い。

 帰り道、ウィリアムはアーリーを送っていく。
「ロスの奴、とうとう年貢の納め時だな。女癖悪いんだから、ちゃんと収まるところに収まてくれればいいんだけど」
「……」
 いつもなら何か言葉を返してきそうなものだが、彼女は何も言わない。
「だいぶ酔ってんのか?」
 ウィリアムの言葉に、ただうつむいた。彼は歩幅を、さらに少し狭める。
 アーリーは、彼の服の裾を掴んだ。
「……」
「服、伸びるだろ」
 彼はアーリーの顔の高さまで屈んだ。
「背中、乗るか?」
「……いい」
 彼女は手を放し、ウィリアムを置いて歩き始める。ウィリアムはその背中を追いかけて、また横を歩いて行くのだった。



●ある日の夜
 広場のベンチにて。
 身分などない、ごく普通の普通すぎる一般人フィラ・タイラーは、燃える島で護られ、護り、生き残った青年の騎士と再会を果たしていた。
 回復したばかりの彼と過ごす少しの時間――喜び合うはずの時間だった。
「え?」
 小屋で別れた女性騎士とも会いたい。
 そんな彼女の思いに、青年騎士は思わぬ答えを返してきた。
 殉職した。と。
 彼女だけではない。もう一人の監視の騎士も、地の魔法を扱う騎士も――。
「え? ……だってそんな……嘘だよね……? みんな、厳しい訓練を積んだ騎士様なんでしょ? 燃える島の調査に選ばれるようなエリートばっかりだよね?」
 そうではないと、青年騎士は答える。
 軍事国家であるここ、アルディナ帝国では成人貴族は基本、騎士位を持っているのだ。
 とくに監視に当たっていた騎士は、経験のある手練れの騎士ではなかったと。
 フィラは小屋で分かれた女性騎士の姿を思い浮かべる。
 自分より年下の女の子――多分貴族で、そういえば経験浅そうで、そう体つきも良くはなかった。
 貴族として、懸命に任務を果たそうとしてた……と思う。
 フィラが燃える島に渡ったのは、一獲千金を求めてだった。
 でも、そもそもごく普通の庶民のフィラが、一攫千金を狙わなければいけなくなったのは、大洪水で家族、友人、財産、それまでの平穏な日々、大切なものを全て失ってしまったから。
「わたし……今回も、生き残っちゃったんだ……」
 女性騎士、大切だった家族、友人たち、平凡だけど楽しかった日々が、フィラの脳裏に思い浮かんでいく。
「……ただ、大切な人たちと、平凡で平穏な日々が送れればそれでいいのに……」
 肩を落とすフィラを、青年騎士が慰めようとしたその時。
「なんか、だんだん腹が立ってきた」
 フィラは拳を握りしめて、顔を上げた。
「歪んだ魔力だか何だか知らないけど、なんでわたしのささやかな幸せを踏みにじるの!」
 彼女の瞳には、怒りの炎が浮かんでいる。
「こうなったら、わたしが世界を救ってやる! ただの一帝国平民に過ぎない自分に何ができるか分からないが、絶対に諦めてなんかやるもんか!」
 肩を震わせながら、吐きだされる言葉。
 青年騎士は黙って彼女を見守っていた。
「絶望なんかするもんか! どこのどいつだか知らないが、首を洗って待っていろ!」
 大きく息を吸い込んで。
「平民なめんな!!!」
 そう絶叫した彼女の肩をバンと青年騎士が叩いた。
「その意気だ。期待している」
 そう言って、くしゃっとフィラの頭を撫でた。
「……っ」
 フィラは歯をかみしめながら、強く頷いた。


 アレクセイ・アイヒマンと妹のタチヤナ・アイヒマンは、自宅で夕食後に、2人で酒を楽しんでいた。
「大事な話があるんだ」
 空いたカップを置き、アレクセイは妹に穏やかに微笑みかけた。
 穏やか、だけれどその目は真剣だった。
「なに?」
 本当に大事な話だと察し、一言も聞き逃さないよう、タチヤナは背筋を伸ばして聞く。
「好きな女性(ひと)が居る。その人の為なら、命も惜しくないと思うくらいに」
 ドクンと、タチヤナの鼓動が高鳴った。
「こんな気持ちになるなんて、想像も付かなかったよ。ターニャ以外に、こんなにも心を満たしてくれる大切な存在ができるなんて」
 兄は変わらず、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「これから、私はその人の為に沢山無茶をする。その事でターニャを悲しませるかもしれない。それでも、私は何もしないで後悔はしたくないんだ。――ターニャには伝えておきたかった」
 意外、な兄の言葉。驚いたのだけれど、タチヤナは何故か妙に納得していた。
 兄の我が儘が、只々、本当に嬉しいと。
 兄はずっと、自分のことは二の次で、タチヤナのことばかりを優先してくれた。
 そんな兄に好きな人が、できた……感情が高まり、嬉しくて涙が出そうになる。
「うん、わかるよ。好きな人の為に何でもしたいって気持ち。兄様の事、心配しない訳はないけど……無事は祈るけれど……反対はしない。応援するよ」
 真っ直ぐ兄を見つめて、タチヤナは言う。
「何があっても、私は兄様の味方だから」
「ありがとう」
 アレクセイは大切な妹に、心から感謝する。
「私もね、好きな人、居るんだ」
「うん、ターニャに好きな人が居るのは気付いていたよ」
「……え? 嘘!」
 直ぐにそう返されて、目を丸くするタチヤナ。
「それが誰なのかも……グレアム様、だろう?」
「そ、そんなに顔に出てたかな……」
 タチヤナは熱くなる自分の頬を、両手で押さえた。
「だって、私はターニャの兄様だからね」
 タチヤナは言動に出るので、分かりやすいのだ。でもそれは言わないでおく。
「兄様ばっかり……何だかズルイ」
 軽く頬を膨らませ、タチヤナはじっとアレクセイを見つめる。
「ふふ、そうだね。正直に白状してしまうと……うん、チェリア様が、好きなんだ」
 アレクセイは照れたように、笑った。
「……兄様がチェリア様を……そっか…そうだったんだ……」
 チェリア・ハルベルトは、タチヤナが好きな人、グレアム・ハルベルトの妹だ。
 タチヤナはよく知らない人だけれど、アレクセイが参加した燃える島の調査で隊長を務めた人で、兄が彼女と一緒にいる姿を何度か目にしたことがある。
「切欠は? チェリア様には好きって言ったの?」
 身を乗り出し、興味津々聞くタチヤナ。
「切欠……って、うーん、難しいな。傍で見ていて、気付いたら……ってカンジで。
 好きだとは伝えたよ。そういうターニャはどうなんだい?」
 もっと飲めと、タチヤナのカップに酒を注ぎ足すアレクセイ。照れ隠しだった。
「私は……告白したつもりだけど、状況が状況だったし……伝わったかは微妙というか……」
 ありがとうと、酒を飲みながらタチヤナは話していく。
「グレアム団長が回復してくれた時にね、思ったの。生きてそこに居てくれるだけで、嬉しいって」
 その時の気持ちが、グレアムの顔が、タチヤナの中に蘇っていき、身体が熱くなる。
「生きてそこに居てくれるだけで、嬉しいって。でね、グレアム団長が幸せに笑顔でいてくれると、もっともっと嬉しいって。その為に、私にできることを頑張るって決めたの」
 タチヤナの顔が輝いていく。
「……私もターニャと同じだよ。チェリア様が幸せに笑って過ごせる未来を掴み取りたい」
「兄様、一緒に……好きな人の為に、頑張ろうね!」
 顔を合わせて微笑み合う兄と妹。なんだか、照れくさい。
 タチヤナはカップに残っている酒を、ぐいっとあおった。

 それから彼女は赤い顔で良く笑った。
 とても楽しそうに。
 そしてほどなくして、眠りに落ちた。
 タチヤナを抱えて、アレクセイは彼女を寝室のベッドへ運んで、寝かせる。
「兄様……兄様の好きなように、自由に生きて、いいんだからね……」
 妹の口から出た言葉に、目を見張る。
 彼女は眠ったままで、それは間違いなく寝言だった。
「……ありがとう、ターニャ」
 妹の頭を優しく撫でてから、アレクセイは窓に向かった。
(俺は、チェリア様とターニャの為なら、命だって捨てられる)
 窓から、夜空を見上げた。
 雲の合間から、月が顔を出す――。
 チェリアもどこかで、同じ空を見ているのだろうか。


 アルザラ1号乗船前。
 元海賊のバルバロは『魔石の欠片』を手に、覚悟を決めていた。
 いや覚悟でもなんでもない。手に入れたそれを使うことに、バルバロは何のためらいもなかった。
「寿命なんざどうでもいい。大事な奴がいねぇこの先何十年の人生に何の意味がある。あいつを取り戻しさえすれば、その瞬間に命尽きたって惜しくねぇ」
 その小さな魔法鉱石は服用をすると大きな力が――魔力が得られるという。
 しかし体への負担が凄まじく、寿命が縮むとも聞いていた。
「こんな石っころの欠片があいつを取り戻すためにどれほどの力になるのか、わからねぇ。でも、何も持たねぇ私は、毒でも何でも喰らって力にしなきゃならねぇんだ」
 口の中に放り込み、ごくりと飲みこむ。
「…………」
 心臓がどくどく音を立てている。
 緊張によるものか――服用した石のせいか。
 身体が熱く感じる。これも通常の興奮によるものか、石のせいか。
 判断がつかない。
「一先ず、身体が壊れるような衝撃があるわけじゃ、ねぇようだな」
 ほっと、息をつく。
「いや、まさか……騙され、た!?」
 ただの石っころを高値で買わされたのかもしれないという思いが、バルバロの中に生まれる。
「クソッタレ……人の弱みにつけこみやがって……!」
 怒りに震えだす、バルバロ
 大地に向けて、魔力をぶつける。
 ドンっと衝撃が走る。
 地面が強く揺れた。大地が抉れる。
「な……んだ? 威力上がってるじゃねぇか! そうか、寿命が縮むなんて、脅しか。は、はははは、ははははは……っ!」
 脱力して、バルバロは笑い声をあげた。
 体の変化が全くないわけではない。
 魔法薬を服用した時と同じような、みなぎる魔力を感じる。
 体力のある彼女は負担をさほど感じなかった。
 バルバロはまだ気付いていない。解ってもいない。
 それが永久に続くということ。肉体は永久に許容量以上の力に晒され続けるということ。
「あいつを取り戻すためなら、何だってやってやる……。何だって、な」
 バルバロの目がギラリと輝きを放つ。
 こうして彼女は十数年の寿命と引き換えに、地の継承者の一族の力を宿した。


「本当ですか……!? 良かった……いえ、良かったと言っていいのかわからないですけれど」
 セルジオ・ラーゲルレーヴから、箱船やブレイブ号には乗らないと聞いたミコナ・ケイジはほっと胸をなでおろした。
「この地に残っても、やることは沢山ありますから」
 酷く不安そうだった恋人のミコナの顔が、安堵感に包まれていく様子に、セルジオもまたほっとする。
 セルジオは彼女を誘って、船に乗りこの地に訪れていた。
 ミコナはセルジオの側にいたくて、彼と一緒にここに来たのだ。
 ここだって安全とはいえない。妹のルルナ・ケイジはブレイブ号に乗るという。
 酷く不安そうなミコナを1人、この地に残していきたくないと思い、セルジオは迷いながらも、残る決意をした。
「一緒にこの地で、お互いが出来ることを頑張れたらいいなと思っています」
 セルジオのその言葉に、ミコナは強く頷いた。
「私は荒事では役に立てないので……。連絡係みたいなの、できないかと思ってるんです。山の一族の方が何人か来ていて、宮殿にも1人残るみたいなので」
「僕はリモス村で、港町やマテオ・テーペに残っている人達の受け入れのお手伝いができればと」
「リモスにも行きます、報告に。行き来は制限されていますけれど、セルジオさんも来れる時は、こちらに戻ってきてください、ね」
 ミコナは不安の残る瞳で、セルジオを見つめる。
 セルジオが優しく頷くと、彼女は安堵の微笑みを浮かべた。
「ここは皇帝陛下のお力で守られているそうなのですが、あの魔力塔」
 ミコナが顔を向けたのは、宮殿にある大きな塔だった。
「……から離れれば離れるほど、保護の力は弱くなると思うんです。リモスには、力届いているかどうか……」
 歪んだ魔力が集められていた燃える島からは、ここよりも離れている。とはいえ、リモスはここ本土よりも魔物が出やすいだろうとミコナは思う。
「大丈夫です。何かの際には、駆け付けられる距離にいるから」
 お互いに、と、セルジオは言う。
 2人は頷き合って、微笑み合った。
「それから、できることを探したり、不安に駆られそうになった時には、アトラ・ハシスでの暮らしを思い出したら何かいいアイデアが出てくるかもしれません」
 山の上の何もない土地に、船乗りと女性と子ども達ばかりの難民たちで築いた村がある。
 今では生活は安定し、探索と世界の魔力調整のために、旅に出ることも出来ていた。
「僕たちはあの地で色々と作り上げてきたのですから、ここには何かないものがあるかもしれない。何かをするのに遅いなんてこと、きっとないと思うから、僕らなりのペースで」
「はい。皆で作った村では、生活に困っている人はいません。だけど、ここの皆さんはまだ不安定な中にいて、戦いで苦しんだ人も多くて……。そんな中、私たちの故郷の人達を受け入れてもらおうとするのだから。私も、帝国の皆さんの助けになることをしなきゃ……!」
 自分に何ができるのかは、まだわからないけれど――。
 セルジオの言葉通り、アトラ・ハシスでのことを思い浮かべ、情報を交換して、世界中のみなと協力して、生きて行けるように。
「私は本当に本当に微力だけれど、頑張る力を――」
 ください。
 と、ミコナはセルジオに手を伸ばし、セルジオは彼女の手を握りしめた。両手で。
 大好きな彼の温もりと存在が、ミコナに力を与えてくれる。


 異常に高身長で、やたら迫力のある大女――リンダ・キューブリックは、騎士団長を誘い酒場に来ていた。
 騎士団長も体つきは良いのだが、リンダはそれをはるかに凌駕する体格である。
 彼女は騎士団のトラブルメーカー。騎士団長とは犬猿の仲と周囲には思われているのだが……。
「ストラテジー・スヴェルへの出向に骨を折ってくれたんだろ? 感謝する」
 届いた酒に手を付ける前に、リンダが言った。
「私は何もしておらん。貴様が燃える島の調査に選ばれなかった理由だが、身体に合う魔法防具がなかったせいだそうだ」
「そうだったのか。……そんな理由だけではないだろう。自分でも分かる」
「解ってるのなら、もっと騎士団員らしく、騎士道精神に則った行動を」
 酒を飲み始めたリンダを見て、騎士団長は大きくため息をつく。
「できるわけないな、そうだな、解ってるさ。はいはい無駄無駄無駄」
「なんだ、物分かりがいいじゃないか」
 リンダとこの騎士団長に就任したばかりの男性は、入隊が近く、先代の団長から共に指導を受け、同じ釜の飯を食った仲だった。仲が良いというわけではないが、腐れ縁と呼べるだろう。
「単なる厄介者払いだ。本土ではより団結が必要になる。統率を乱す者は不要だ」
「そうか。どちらにしろ、感謝している」
 これで思う存分戦える。
 意気揚々としているリンダの姿を、騎士団長は硬い顔つきで見ていた。
「リンダお前、なぜそんなに戦場を好む? お前の戦いは、騎士として、護るべき民を護るためとは到底思えない。自己を満たすためか、何か埋めるためか? 死に場所を求めているわけではないだろう」
「……日常が、退屈なんだ。死に場所を求めているわけじゃないが、正直、命は惜しくない」
 死に場所ではない、リンダは自分の居場所を求めていた。
「犬死は御免だがな」
 それでも、不完全燃焼のまま人生を終えることに、恐れを感じていた。
「お前にも、心から護りたいと思える者が出来れば、変わるんだろうがな」
 そう言いながら、騎士団長はつまみを口に運び、酒を飲んでいく。
「思う存分暴れてこい。だが、民の信頼を損なうようなことは絶対にするな」
「歪んだ生物との戦いは、騎士道とやらで躊躇していいものなのか」
「……お前のようなものが必要になる。そんな気がしなくも、ない」
 硬い顔でそう言い、団長はカップを置いた。
 そして僅かな時間、1杯だけ共に酒を楽しんだ後、団長は「出発前に始末書全て仕上げていけ!」と厳しい言葉を残し、宮殿に戻っていった。
(あの性格、嫌いではないが――)
 やはり相性が悪いとリンダは感じる。
 自分達は水と油みたいな関係だろう、と。
 彼の怒りの矛先が自分に向くことは勘弁してほしいが。
「まあ、負担になってる自覚は、ある」
 言いながら、リンダは酒をあおり、次を頼む。
 こんなに気分の良い日に、始末書なんてとんでもない。

●出発前夜
 燃える島へ調査に渡る日の前夜。
 明日に備えて、ナイト・ゲイルは武具の手入れをしていた。
 先日宮殿で、ナイトはチェリア・ハルベルトが行方不明になったと聞かされた――。
「何というか……やれやれだ」
 思わずため息が漏れる。
 歪んだ魔力に完全に飲まれた、とは考えづらい。
「早い気がするんだよな」
 最後に会った時、彼女はそこまで囚われていないように見えたから。
 だからまだ助けられる、はずだ。
(助けよう、拒まれても。それでも大丈夫だと言い続けよう)
 彼女が自分に向けた目と言葉。
 強張った顔。苦しげな声。
『……頼りたいと思っている。国の仲間と同じような、親愛の念を抱いている。おかしい。これは嘘だ。私の感情じゃない。私はお前が嫌いだ!』
 なんだろう、頼っても大丈夫なのかと、確かめようとしているかのようにも見えた。
(それなら、大丈夫だと手を差し出し続けるしかない)
 ナイトには、護りたいもの、護るべきものが沢山ある。
 バカなことを言うな。お前には他に――と拒絶するチェリアの姿が思い浮かんだ。
「一人を救えないで皆を救えるわけがない。だからお前が拒んでも俺が絶対にこちらへ連れ戻す」
 葛藤しているチェリアの顔が思い浮かぶ。手を伸ばしたいのに伸ばせず、自分自身の手を握りしめる彼女の姿が。
 記憶の中の彼女に向かい、ナイトは強く言う。
「大丈夫だと証明して見せる、だから首を洗って待っていろ! チェリア・ハルベルト!!」
 ……。
「いや、意気込みすぎて、訳わからなくなってきた」
 ふうと息をついて、ナイトは武具を片付けた。
「マテオの皆に手紙書くか」
 それから、紙とペンを手に椅子に座った。
 マテオ・テーペとはベルティルデが定期的に連絡をとっているのだが、ナイトのもとには何の連絡も届いていない。
 海に出たあとのこと。帝国でのこと、ここの人々のこと。
 今日までのことをつらつらと書いて行く。
 皆は元気かー! 俺は元気だー!
 力強字でそう記して、サインをすると、折りたたむ。
 皆を安全な場所に避難させる。
 その為には帝国の協力が必要不可欠だ。
「さて、色々とやる事は山積みだが、全部やってやるさ! 見てろよ!!」
 自分の存在をアピールし、結果に繋げてみせる。
 全て護る。ナイトの意思は変わらない。

●アルザラ1号の前夜
 夕食後、ヴィーダ・ナ・パリドは船の中の割り当てられた部屋に戻ってきた。
 夫のセゥとは勿論同室だ。
「甘さ控え目だ、寝る前だしな」
 皿に乗せた焼き菓子と、お茶の入ったカップをテーブルに並べる。
 手作りの焼き菓子の形は少し……いや結構歪だ。しかし美味しく食べられるレベルまで料理の腕が上がっていることは、セゥも知っている。
セゥは箱船に乗るんだよな……俺はブレイブ号に乗るから、目的地が同じとはいえ、到着まで離れることになるな」
 ソファーの隣に腰かけて、菓子を食べながらヴィーダは呟いた。
 互いを傍に感じながら、流れていく穏やかな時間。
 次はいつ、彼とこんな風にゆっくり過ごせるだろうか。
 儀式までに2人だけの時間を作れるかどうか……。
 だから、伝えておきたいことがある。
「オントのように、儀式で大切な人を失った誰かと会うかもしれない。その時、儀式を成功させて生き残ったセゥやシャナに、憎しみを向ける奴もいるかもしれない。でも誰が何を言ったって、セゥは生きてることに罪悪感なんて持たなくて良い。誇って良いんだ。忘れるなよ」
「誇って……」
 セゥは菓子を食べる手を止めて、ヴィーダに目を向けた。
 そうだとヴィーダは強く頷く。
セゥはシャナと、俺たちと一緒に儀式をやり遂げて、多くの人を守ったんだからな」
「大丈夫だ。……俺は飲まれない」
 そう言い、セゥはヴィーダをじっと見つめた。
「ああ。セゥが強いのは知ってるし信じてるけど、だからって心配しない訳じゃない。まぁ、それはお互い様か」
 そうヴィーダが苦笑すると、セゥは無言で頷いた。
「祭具も皆のことも守ってくれよ、頼んだぞ。あ、皆ってのに、セゥも入ってるんだからな。ちゃんと自分のことも守るんだぞ」
 わかった、と答えて、セゥはヴィーダの手に、自分の手を重ねて握りしめた。
 真剣な目で彼女を見つめ続ける。
「ヴィーダも」
 そう続けられた彼の言葉。
 ヴィーダも自分自身のことも守れと。そして、ヴィーダのことも守りたい。そんな彼の気持ちが、短い言葉から感じ取れた。
 握られた方ではない腕を伸ばして、ヴィーダはセゥの肩に回した。
 すぐに、セゥも彼女の背に手を回し、抱きしめてきた。
「シャナに、甘い生活とか言われたんだぞ」
「……見られているのか」
「いや、そうじゃなくてシャナの想像」
 どんな生活を想像されているのだろう、か。ヴィーダの顔が赤く赤く染まっていく。
 セゥはそのままヴィーダに体重を乗せて、ソファーの上に押し倒した。
「甘さ控え目が、いいか?」
「いや、え、えーと……」
 首筋に感じる、彼の唇、熱い息。
 だけど――こんな生活が。
(恥ずかしいけど嫌いじゃないから、困る)


 出航前夜。
 タウラス・ルワールは妻のレイニ・ルワールメリッサ・ガードナーの見舞いに誘った。
「……行くわけないでしょう」
 驚きを露にレイニはそう答えた。
「海賊船から情報を運んだのは、彼女なのですよ」
 潜入調査させたと恩を売ることもできた。
「俺も会議に挑みたかったです」
 続いていくタウラスの言葉を、レイニは不思議そうに聞いていた。
「意見には団所属をと求められましたが、従えば団員の……帝国の案とされたのかもしれません」
「ええっと、ちょっとまって。意味が全く分からない」
 困惑しながら、レイニは詳しく聞いてみる。
 タウラスは帝国騎士団の対海賊戦に対して、騎士団長に意見をしようとして、団員に拒まれたらしい。
 他国の者が帝国の内乱に口を挟めばそうなるし、団員として帝国の騎士団に所属すれば、騎士団員の案となるのも当然かとレイニは思う。何故、夫がこのような事を言うのか、レイニは深く考え込んでいく。
「燃える島の救援を募ったのも帝国でした。不思議な石を扱う女性も助けましたが、どう報告されたのか……。手柄は帝国に、それ以外は勝手な余所者に。半年間生活を共にしたことで、それを鵜呑みにする者は減ったと思いますけれど」
 レイニは話の意味を懸命に理解しようとし、意見を言う場がなかったと言いたいのかなと考える。
「リッシュさんのこと、宝探しの夢が前進したと思いました。ますます死ねないと奮起するかと」
「……」
「それと、医者は足りてると一蹴されたので、航路で別の勉強もすることにしました。分担はお互い納得いくよう相談しましょう」
「ブレイブ号に乗るんでしょう?」
「目的地に到着したら、手伝いに来ますよ」
 ここリモスに医者はおらず、医務室を備えていた箱船も出航する。
 タウラスがレイニを見舞いにと誘ったメリッサは昏睡状態が続いている。帝国からは見放されており、箱船にも乗せておけない。
 自分も彼に此処に残って欲しいと思っていて、ここで必要とされている、そして会議に挑みたかったらしいのに、ブレイブ号に乗る――長期間戻るつもりがない、というのはなぜなのだろう?
(私が余計なことを言ったから……?)
 ブレイブ号は元々アルザラ港――公国の船で、帝国の監視下にあるものの、レイニやマテオから訪れた港町の住民に返された。儀式後、2隻目の箱船に乗った要人たちを救助する役割がある、のだが。
 息をついて、レイニは柔らかな表情で話しだす。
「この間はごめんなさい。あなたに怒ってるって言われて、私もカッときちゃったの。昔から私、あなたの考えがよくわからない。あなたには何が見えていて、何が見えていないのかな……」
 じっくり話し合う必要があると思うのだけれど、今は少しでも休む時間がとりたい。
「それで、情報の出所について聞きたくないと言った理由なんだけど、私やアトラ・ハシスの民と、帝国に目を付けられている人は一切関係ないと言えるようにしてほしいの。あなたが糸を引いていたなんて思われたら、最悪あなたを排斥しなきゃならなくなる。だから、見舞いに誘ったりしないで。観察とか、面会ならまだわかるんだけれど」
「……」
 言いたいこと、伝えたいこと、想いがかみ合わないと、タウラスもどうしても感じてしまう。
 個性が違いすぎる2人には、じっくり話し合う時間が必要なのに。出航は明日に迫っていた。
「今晩はもう休みましょう」
 そう言って、タウラスはレイニの手をとった。
「実はほんのちょっとね……密会してたと思われる彼女と浮気? なんて考えが過ったのだけれど、それはないって確信が持てたわ」
 それならば、迷わずここに残るだろうから。
 歩きながら。
「ごめんね……タウ」
 レイニはまた謝罪した。弱い声で。

●箱船の前夜
 箱船、出航前日の夜。
「明日はいよいよ水の魔力の吹き溜まりに向けて出発だけど……出航してから不具合が判明しても戻ったり出来ないから、念入りに最後のチェックをしておかないと」
 コタロウ・サンフィールドは、装置や物資の積み込みに関して、入念にチェックをしていた。
 技師長として業務に当たっていたため、箱船のことは熟知している。作業はスムーズに進んでいた。
「それにしても、何事も無く氷の大地に着けて儀式も成功して、当然ベルティルデちゃんにも無事でいてほしいなぁ」
 色々と聞かされてはいるが、それは箱船に乗る皆も、ベルティルデ本人も望んでいることだ。
 今のこの状態は、箱船でマテオ・テーペから出発した時には、予想もしてなかった状態だ。箱船が造られた真の目的はともかく、自分達は移住地を求めて出航した、はずだ。
「けど、冷静に考えると、今でも大海原を当て所なく航行していてもおかしくなかったわけだし。帝国との協調と援助のおかげである程度の道筋が見えているのは進展と言えなくも無いかな?」
 そうコタロウは前向きに考える。
 海の上に在り、2000人の人が暮らしていけるような土地は、ここ以外ないのかもしれない。
 帝国の協力を仰げれば、少しでも多くの人を助けることができる……はず。
「ただ、かなり困難なミッションなのが問題だなぁ。それとベルティルデちゃんに負担がかかりすぎるのも心配だし」
 暴走した水の魔力を鎮めること。
 それが帝国が出した条件だという。成功させなければ、帝国の協力は得られない。
「とは言え、今までと同じように、やるべき事を見定めて、方法を吟味して、後は全力で頑張る。それしか無いよね」
 そう。自分は自分のできることを。
 仲間達と心を一つに、成功に向けて皆で協力し合っていくしかない。
「さて、どうやら問題ないようだし、そろそろ帰って寝よう」
 コタロウは箱船から降りて、リモス村の長屋へと向かう。
 この村も、戻ってくる頃には残った人達で随分と変わっているだろう。
 再び、この地に多くの人と戻ってくることができるよう。
 そして、世界状態が安定した後、旅立つことができるよう、願いながらコタロウは夜道を歩いていく。

●箱船船内にて
 出航して少しした頃。薬師であるリベル・オウスは、箱船の医務室で薬品の整理や、使用状況を書きとめていた。
 今のところ魔物と遭遇することもなく、航海は順調だった。
「おっと、もうこんな時間か」
 気づけば日が暮れている。報告もかねて、リベルはベルティルデ・バイエルのところに向かった。

 操舵室にいたベルティルデに、報告をしている最中……。
 ぐ~ぎゅるるるる~~~。
 突然鳴った大きな音。
 ベルティルデは目をパチクリさせる。
「あー……」
 リベルの腹の虫が大きな鳴き声をあげたのだ。
「リベルさん、お食事まだですか?」
「昼からなんも食ってなかった」
「きちんと食べないと、もちませんよ。ご自身がお薬を頼ることになってしまいます」
「あうん、ちと忘れてただけだから」
 それでは続きは食堂でと、2人は食堂に向かった。
「ベルティルデはもう食ったのか?」
「はい、いただきました。それにしても……」
 ベルティルデはリベルの夕食を見て、少し不安そうに眉を寄せた。
 彼が食べ始めたのは、薬草サンドイッチ。
 薬草をパンにはさんだだけのものだ。
 美味しくなさそうというのが、見てわかるし、肉類が足りないとも思う。
「もっと力のつくもの、食べてください」
「栄養はあるんだ。まあ、自分でももう少しまともな物を食うべきだと思うけどな」
 ……不味い。
 しかし、ベルティルデの前で不味そうな顔をしては、より心配させてしまう。
 リベルは飲みやすく調整してある薬茶でサンドイッチを流し込んでいく。
「アトラ・ハシスの方の中には、釣りや漁が得意な方がおられるそうです。保存食がなくなっても、お魚分けてもらえますよ」
 だからみんなと一緒に食べてくださいねと、ベルティルデは心配そうな顔で言う。
「大丈夫。自分の体調管理はできるから。それよりベルティルデこそ、しっかり栄養取って、英気を養ってほしい。目的地に近づいたら何が起こるかわからねえから、万全な体制を整えておくに限る」
 リベルの言葉に、ベルティルデはこくりと頷く。
(ついでと言っちゃなんだが、今の健康状態を確認しておくか)
 必要な報告を終えてから、リベルは彼女の心と体の状態について、確認をしておく。
 体温、脈拍、食欲。そして表情、心の状態。
 見て、会話して、そして触れて。調べていった。
 彼女の心は決まっているようで、今は特に緊張した様子もなかった。
(大丈夫だ。作戦も成功させて、彼女も生かして無事帰る)
 すべて成し遂げるために、出来ることは全てやりきる。
 自分に感謝と微笑みを向けるベルティルデを前に、リベルは意を強くする。

●宮殿の図書室にて
 臨床試験モニターとして宮殿敷地内に入院中のジン・ゲッショウは、暇を持て余して、魔法図書室に来ていた。
 夜も更けて来て、そろそろ帰ろうかという時。
「これはこれはエクトル殿」
 図書室にの入口で騎士のエクトル・アジャーニの姿を見つけ、歩み寄る。
「魔法図書室は良く利用しているのでござるか?」
「ああ。お前も遅くまで熱心だな」
「拙者は勉強に来たのではないでござる……。試験中故に、酒を飲みに行くことも許してもらえぬのでござるよ」
「そうか。まあ数日の辛抱だ。1つの試験が終わったら外出許可が出るだろ」
 エクトルは本の返却に来たようだった。
「ふーむ」
 彼の様子を見ていたジンはしばし考えた後。
「……エクトル殿、よければ少し時間をいただけぬか? 拙者、エクトル殿に聞きたい事があるのでござるよ」
 ジンの言葉に、なんだろうかと思いながらも、2人は近くの席に向かい合って腰かけた。
「エクトル殿のお父上は、どのような方だったのでござろう?」
 エクトルの父――元騎士団長は、歪んだ魔力の影響を受けていた海賊との戦いで、殉職している。
 その対海賊の作戦に、ジンも協力していたのだが、元騎士団長が指揮をしていた頃、ジンは開発に協力しており、現場で騎士団長と行動を共にしたことはなかった。
「聞けば大層立派な戦いぶりだったそうでござるが……そのお人柄はご子息であるエクトル殿こそが一番良くご存知でござろう。どうでござる。お父上のこと、話してくださらぬか?」
「……父のことは、僕よりも現団長や、直接指導を受けた団員の方が知ってるかもしれない」
「騎士団長としての姿だけではないでござるよ。この国のために散っていった者達を拙者は記憶したいのでござる」
 先の戦いでは、この国のために多くの者が命を落とした。
 その一人一人に今の今まで生きてきた歴史がある。
 それは戦死者何名という数字で纏めて語っていいものではないと思うから。
「先の騒ぎの元凶たる魔力がどうのとまだまだ真の平和には届かぬようでござるが、その日々の合間に彼らの人生を埋もれさせたくないのでござるよ」
 エクトルはやや、複雑そうな顔をしていた。
「幸い拙者『もにたー』故、他のお歴々よりは時間に融通が利くでござる。この国に生き、そして散っていった彼らのことを記録したいのでござる。
 いかがかな? お父上のこと、話していただけぬかな?」
「んー……話せることは、あまりないんだが」
 吐息をつくと、エクトルは父の姿を思い浮かべながら語り始めた。
 エクトルは騎士となる前、近隣の街で暮らしていた。
 父は、離宮であったこの宮殿の警備を担当しており、家に戻ってくることはあまりなかった。
 戻ってきても、守秘義務があるため、仕事についてエクトルたちに話すことはなかった。
 自分には厳しいばかりの父だった。
 武勇に優れた父と違い、どちらかといえば自分は、魔法や魔法薬、魔法具の開発に興味を持っていた。
「貴族として、民を護るための鍛錬は忘れるなと厳しく言われてはいたけど、僕が興味を持った分野についても、応援してくれてはいた」
 エクトルには妹がいる。
 妹は自分と違い、小さな頃から人懐っこくて、いつもしかめっ面をしている父に、笑顔で駆け寄っていき、抱き着き、抱き上げてもらっていた。
 父が妹を見る目は優しくて、羨ましいと思う事もあった。
「ホント、父さんのこと、僕は良く知らないんだ。陛下は甘すぎる。父さんは自分を犠牲に、それを重鎮に伝えたんだと思う」
「なるほど……エクトル殿から見たお父上はそんなお方だったでござるな」
「僕は父の意思を継ぐ。悪の芽は早めに摘むべきだ」
「ふむ」
 エクトルの父、元騎士団長と肩を並べていた騎士達からは、また違った話が聞けそうだなとも、ジンは思う。
「おおっと、もうこんな時間でござるな」
「それじゃ、またな」
 エクトルは立ち上がり、ジンの肩に手をポンと置くと魔法図書室から出て行った。



●無事を願うからこそ
 訪ねた自室にいなかったバリ・カスタルは、海岸で夜の海を眺めていた。
 彼が氷の大地に旅立つ前に話しておきたいことがあったアルファルドがその背を見つけた時、どこか不安そうにしているように感じた。
「バリ。こんな夜更けにどうした」
 声をかけると、バリは大げさなくらいに驚いて振り向いた。
「びっくりした……アルファルドか。そっちこそ何だよ。夜風は体に悪いぞ」
「そう思うなら、部屋にいてくれ」
「あはは。……ちょっと、いろいろ考えちゃってさ。氷の大地に着くまでのこと、水の魔力の調整、その後……兄ちゃんには、たぶん会えないんだろうな、とか……。けど、ここで受け入れ態勢を整えて待っているんじゃ、きっと気が狂っちまうから、ジスレーヌには悪いけど行かせてもらう」
 バリは心を決めるように、一気に話した。
 そんな彼の手に、アルファルドはお守りを握らせた。
「お前さんはお前さんなりに頑張ってる。そうなると、後はもう神頼みだ。使えるものは何でも使えってことで。こいつには幸運が寄ってくるという伝承があってな」
 何だよそれ、とバリは笑った。
「ありがとう。なんか、大丈夫な気がしてきた」
「ああ。これが終われば、兄との再会に近づくんだ」
「そうかな……そうだな、次の機会とか……あれば……」
 マテオ・テーペが危機的状況であることは、バリも知っている。
「魔力の吹き溜まりでどういう影響を受けるかわからないが、前にも言ったが魔力の低いお前は影響を受けづらく、一番状況を冷静に見られるんだ。みんなを頼んだぞ」
「ああ。ここで魔物の相手もして、剣も上手くなった! ……と、思う。きっとみんなを守ってみせる」
「……あぁ、でも無茶はするなよ。休む時はちゃんと休めよ」
「何だか心配性の母ちゃんみてえ」
「せめてじいちゃんと」
 肩を落とすアルファルドに、バリは吹き出す。
 母ちゃんのようだとは思わなかったが、アルファルド自身も口うるさいじじいだなとは思っていた。
 けれど、そうなってしまうのは、バリを含めて船に見知った顔がいると思うと当たり前のことで。
 全員、無事に帰ってきてほしいと願ってしまうのである。
 そうして、ふと不思議に思う。
(……おかしいなぁ。以前は終わることしか考えてなかったって言うのに)
 いつから変わってしまったのだろうか。
 バリに倣って寄せては返す波を眺めてみるも、答えはくれず。
 と、横から盛大なくしゃみが聞こえた。
「やべぇ。風邪引いたらみんなを守るどころじゃねぇや。もう戻るよ。話、聞いてくれてありがとう。あと、お守りも。毎日祈っとく」
 じゃあな、とバリは帰って行った。
 その背には、もう不安の色は見えない。
 安心した直後、アルファルドも大きなくしゃみをしたのだった。

●星とブレスレット
 出航日前日の夜、アウロラ・メルクリアスカサンドラ・ハルベルトを夜の散歩に誘った。
 昼の賑わいとは打って変わった静けさの中、魔法具による街灯を頼りに歩く。
 アウロラが足を止めたのは、街でも少し開けていて街灯も少ないところだった。
「あ、やっぱり……。ねえ、見て。さっきより星がよく見えるよ」
 言われて見上げたカサンドラから「わぁ……っ」と感嘆の声がこぼれた。
「綺麗……」
「私は全然知らないんだけど、カサンドラちゃんは星の名前とか知ってる?」
「少し……。先生が、教えてくれたの……」
 カサンドラは昔勉強を見てくれていた家庭教師が教えてくれた星を探し、指をさして確認しながら辿っていく。
「あれが……で、あの星が……」
「うんうん」
 アウロラもその指先を追って、星を見た。
「星は……お父様のお父様の……もっと前のお父様が生まれるずっと前から、変わらずに、瞬いてるんだって……すごいね」
「カサンドラちゃんのお父さんよりもおじいさんよりも、もっとずっと前からか……途方もないね」
 と、肩を竦めるアウロラ。
 ふと彼女は思い出して、鞄から毛布を引っ張り出した。
「寒くない? これに一緒にくるまろっ」
「うん」
 二人は寄り添って毛布にくるまり、再び星空を見上げる。
 少しすると、カサンドラがアウロラに話しかけた。
「明日の準備とか……大丈夫?」
「ん? うん、大丈夫。あのね、この街から見る星空もしばらくは見れなくなると思ったら、今日のうちに見ておきたいなって。二度と見れなくなるわけじゃないんだけどね」
「うん……みんなで、帰って来ようね」
「うん、必ず。あと、渡したいものがあったの」
 アウロラはお手製の小さなブレスレットをカサンドラに渡した。
 貝殻を加工して作ったものだ。
 カサンドラはそれを手首に通し、掲げて眺めた。
「かわいい……」
「何の種類の貝殻なのかはわかんないけど、綺麗でしょ。実は、自分のも作ってあるんだよね。ほら」
 そう言ってアウロラは袖をめくり同じものを見せた。
「おそろい……だね」
 手首を並べて微笑むカサンドラ。
「魔法はかかってないけど、お守り替わりかな」
「ありがとう……大事にする、ね」
「カサンドラちゃん。私、カサンドラちゃんのこと好きだよ」
 急に真剣な顔でそう言ったアウロラに、カサンドラはきょとんとした。
「友達としてじゃなくて、一人の女の子として」
 カサンドラの目が大きく見開かれる。
 しばらくそのままの状態でいたが、やがて落ち着きなさそうに視線がさまよい、もぞもぞし始めた。
「あの……私、私……」
 すっかり気が動転してしまった彼女に、アウロラはやさしく微笑んだ。
「返事は今じゃなくてもいいよ。どんな返事でも、私達が友達なのは変わらないからね」
 ……ちゃんと、落ち着いて、考えます。
 カサンドラは何とかそれだけを絞り出した。

●世界平和と愛
 ジスレーヌ・メイユールに夕食に誘われたヴォルク・ガムザトハノフだったが、現実に調理を主導しているのは彼だった。
 危なっかしい手つきで芋の皮を剥くジスレーヌにハラハラしながら、手際よく次の芋を手に取った。
 そうしてできた魚のスープとパンがテーブルに並んだ。
 調理の時からずっと思い詰めたような顔をしていたジスレーヌに気づいてはいたが、ヴォルクは黙って様子を見守っていた。
 食事が始まり、スープを一口飲んだジスレーヌが意を決したように声を上げた。
「あの!」
「ん?」
 ヴォルクが顔を上げると、ジスレーヌの目がサッとそらされる。
 そして、もごもごと言った。
「ス、スープおいしいですね。もしかして、上達しました?」
「日頃の修行の成果だな。だが、マテオの女将の究極ハンバーグには敵わない」
「懐かしいですね」
 ヴォルクが教えてくれた究極ハンバーグは、ジスレーヌも一緒に食べたことがある。
 思い出に頬を緩め、ジスレーヌはハッとした。
「違いますっ、そういう話ではなくっ。こ、この前のことです……あの時は、逃げたりして、ごめんなさい」
 ジスレーヌは深々と頭を下げた。
 ヴォルクはいったん食事の手を止め、話に耳を傾ける。
「あんな態度をとったことを、ずっと申し訳なく思っていました。それで、きちんと考えました。私も、ヴォルク君が必要です。理由はいろいろありますが、結論はこの一つだけです。あの態度がヴォルク君を傷付けて呆れさせていないなら、私もずっと一緒にいたいです」
 顔は見えないが、ジスレーヌの耳は真っ赤に染まっていた。
 ほんの数呼吸の間が、彼女にはとても長く感じた。心臓は強く脈打ち、額に汗がにじむ。呼吸も何だか苦しいかもしれない。
「俺は……」
 と、言ったヴォルクの声の調子は、ジスレーヌとは反対に落ち着いていた。
「確かにあの時、逃げられてしまったが……待つことができない子供ではない。……そうか、最近は修行も畑仕事もあまり身が入っていないと思っていたら、そういうことだったのか」
「……」
「冷めてしまう。食べよう」
 ジスレーヌは、戸惑った顔を上げた。
「ヴォルク君は、待っていてくださったのですか」
「様子は変だったが、拒絶されていたら顔を見せてくれなかっただろう? だから、焦ってはいなかった」
「すごい平常心です……。私なんて、気が動転してあんなだったのに」
 ジスレーヌは感嘆の息を吐いてヴォルクを見つめた。
「ヴォルク君が世界を滅ぼしたりしないように、ずっと一緒にいますね。ですからヴォルク君は、私が私に絶望して私自身を滅ぼしたりしないように、傍にいてください」
「これで世界は平和だな」
 ジスレーヌはにっこりして、まだ温かいスープを口にした。

●報奨制度、いよいよ再始動なるか!?
 日中にガーディアン・スヴェル本部を訪れていたリキュール・ラミルは、夜にもう一度足を運んだ。
 本部内の明かりのほとんどが落とされ、団員もほぼ帰宅している。
 自分の足音がよく聞こえる静けさの中を、リキュールは資料室を目指して歩いた。
 資料室のドアは開いていて、中を覗くとテーブルの一つに蝋燭が灯されていた。
 そこにマリオ・サマランチがいて、資料をめくっていた。
 軽く咳払いをして来訪を告げた。
「……おや、ポワソンさん。どうしました?」
「日中のあなた様のご様子がどうしても気になりまして……。ここの仕事以外で、何かご苦労をなさっているのではございませんか?」
「はは……あなたの目はごまかせなかったようだね」
 苦笑するマリオに椅子を勧められ、リキュールは向かいに腰かけた。
「自分の不甲斐なさに情けなくなっていたんだ。誰にでもあることさ……」
「確かにどなたの身にも起こり得ることでございますが、今、苦悩なさっているのはマリオ様でございましょう」
「……そうだね」
 ぽつりとそう言ったきりマリオは黙ってしまったので、リキュールはそれ以上は聞かなかった。
 そして話題を変えることを示すため、明るい声の調子で切り出した。
「マリオ様、いよいよ例のアレを再開いたしますよ」
「例のアレ?」
「報奨制度でございます」
 にこにこと告げるリキュールに、マリオの顔も穏やかなものになっていく。
「復活第一弾として、マリオ様を推薦しました。すでに多くの方々が賛同してございます」
「わ、私かい?」
 思ってもみない展開に、マリオは目を白黒させた。
「いやいや、私よりもふさわしい人がいるだろう。ほら、あのパン屋さん。赤字覚悟でたくさん避難所にパンを送ったそうじゃないか」
「ええ。それでも皆様が選んだのは、あなた様でございます。グレアム団長やヘーゼル氏の不在中に、Gスヴェルを支えた功績は大きいものです」
 私だけではないのだが……と、マリオは困り顔で頭を掻いた。
「一緒に支えた団員方も納得することでございましょう」
「そうだろうか……」
「ええ。団員方もきっと喜ばれますよ」
 マリオは目を伏せ、考えた。
 やはり自分がふさわしいとは思えないが、拒み続けるのもリキュール達の気持ちを無碍にしてしまうだろうと。
「ありがとう、喜んでその賞をいただくよ。でも、私の他にこのGスヴェルを率いたベテラン二人も表彰してくれるかい? みんなで分け合いたいんだ」
「では、そのように調整いたしましょうか」
「わがままを言ってすまないね。式が楽しみだ」
 マリオの笑顔は、日中よりも本物だった。

●旅の夜空
 波の音の中で眠るのは、もう慣れた。
 しかし、揺れる船での就寝に慣れるのはしばらくかかった。
 それでも、もう大丈夫と思ったにも関わらず、今夜のカサンドラ・ハルベルトは眠れぬ夜を過ごしていた。
 そこに控えめなノックの音がした。
 ユリアスです、と言われて慌ててドアへ駆け寄った。
「一緒に星を見ませんか?」
 と、誘われたカサンドラは微笑んでそれに応じた。

 夜の甲板は、リモス村の夜よりずっと寒い。
 ユリアス・ローレンは、カサンドラの肩にそっと上着をかけた。
「あ、ありがとう……」
 二人は船縁まで進み、そこから夜空を見上げた。
 今夜は雲がなく、頭上いっぱいに星が散りばめられていた。
「流れ星を見たことはありますか?」
「ううん……見たことないよ」
「僕は小さい時に見たことがあるのですが、流れ星に願い事をすると願いが叶うそうです」
「そうなの……」
 カサンドラは首を巡らせて、どこかに星が流れないか目を凝らした。
 と、その時、視界の端にスッと青白い線が走った。
 あっ、と上げた声が重なる。
「消えちゃった……」
「きっと、また見えますよ」
 それから少しの間、二人は無言で流れ星を探し続けた。
 どれくらいそうしていたか、ついに待ち望んだ瞬間が訪れた。
 ユリアスは必死に願った。
『カサンドラさんが幸せになりますように』
 星はすぐに消えてしまったが、それでも強く、強く願った。
 隣を見ると、手を組んで目を閉じたカサンドラも一心に何かを願っている。
 少しすると気が済んだのか、ユリアスに見つめられていることに気づいて恥ずかしそうにした。
「何を、願っていたんですか?」
「みんなで、無事に……帰れますようにって……。あの恐ろしい夢を全部……流れ星が、連れてってくれたらいいのに……」
 組んだ手にぎゅっと力を込めるカサンドラ。
 ユリアスはその手をそっと解くと、手作りのラベンダーのサシェをその手のひらに乗せた。
「ラベンダーの香りがします。安眠効果が望めるものです。……大丈夫。きっと、願いは叶います」
 カサンドラはユリアスのやさしい言葉を抱きしめるように、手の中にサシェを包み込んだ。顔を近づけると、ホッとするような香りがした。
「ありがとう……いい香り、だね。ユリアス君は、何を願ったの……?」
「僕は……内緒です」
「……聞きたい」
「直近の願いは、そのサシェがカサンドラさんに幸せな夢を見せてくれることです」
 予知夢を見なくすることはできないだろうことは、ユリアスもわかっている。
 それならせめて、少しでもこの香りで心が癒されてくれたらいい。
 いつか幸せな夢を見れたらいい。
 その後もしばらくの時間、二人は並んで星空を眺めていた。

●静かな夜の自室で
 ふぅ、と息を吐いてルティア・ダズンフラワーは読んでいた本を閉じた。
 彼女は鍛錬の一環として、兵法書や戦術に関する本なども読む習慣があるのだが、今夜はどうにも集中できなかった。
 そういう時は、気分転換に趣味を始めるに限る。
 ルティアは刺繍を趣味としていて、日々の合間に針を進めている。
 机の引き出しからデザイン案と道具を取り出し、窓を少し開ける。
 そうすると、夜だけの音が流れてきて気分が落ち着くのだ。
 少しの間、その音に耳を傾けた。
 一呼吸ごとに、夜特有の少し湿った葉擦れや、草花が揺れる音が聞き取れるようになっていった。
 それから、針を取った。
 デザインは、冬の花の意匠だ。ルティアの家名でもある花のように、十二輪の花からできている。
 部屋には、布に針を刺す音と糸が通される音だけがあった。
 一針、一針、丁寧に刺していくごとに、ルティアの心のざわめきは静まっていった。
 形にならない思考の断片が取り払われると、思い浮かぶのはグレアムのことだ。
(あの人の穏やかな瞳も、真摯な眼差しも、きっと……)
 大きな役目を背負った故なのだろう、と思った。
 残された自分にできることは、目の前の事実と向き合うことだ。
(街の人々の心と日々向き合いたい)
 グレアムがいなくなっても、それが変わることはない。
 彼を早く見つけ出したいと逸る気持ちはあるけれど、その気持ちを針の運び方に集中することで落ち着かせていった。
 完成すれば、美しい刺繍が施されたハンカチになるだろう。地道な一針がその未来に運んでくれるのだ。
(これが仕上がる頃には、未来は……)
 ダズンフラワーのように、美しくあるだろうか。

 ふと、夢から覚めたように針を動かす手が止まった。
 そろそろ寝るべきだと、体が催促しているのだろうか。
「今夜はここまでにしましょう」
 ルティアは体の感覚に従うことにした。
 道具を机の上に置き、窓を閉めようと窓辺に寄る。
 ずい分高い位置に月が昇っていることに気が付いた。
 それで彼女は、どれだけ時間が経過していたかを知ったのだった。
 ぼんやりと月を眺めていると、冷たい夜風が頬を撫で再びルティアの意識を現実に引き戻す。
 名残惜しそうに窓を閉めながら、誰にともなく呟いた。
「──月が、とても綺麗ね」


■スタッフより
【川岸満里亜】
こんにちは、川岸です。※から☆までを担当させていただきました。
クライマックスに向けての皆様の夜の様子に、楽しく感じたり、切なく感じたり、様々な気持ちを抱かせていただきました。
ご参加いただきました方、ご覧いただきました方、ありがとうございます。

【冷泉みのり】
こんにちは、冷泉みのりです。
シナリオにご参加していただき、ありがとうございました。
リアクションの一部を担当いたしました。
安らぎのひと時となれれば幸いです。

【東谷駿吾】
今回は『中庭の鍋パーティー』を担当させていただきました。この冬、鍋には大変お世話になりまして……。確か我が家でも傷みかけの食材を鍋に入れてたような……うっ、お腹がッ。残念ながらネズミ肉は食べたことがないのですが、鍋に入れたら食べられるんでしょうか? 私は平民の出ですが、挑戦しなくてもいいかなって感じです……。何はともあれ、婚約おめでとうございます!