エピソード~宮廷~

 

 共に箱船に乗ってきた人達と部屋で歓談していたルース・ツィーグラーは、話が一段落着くと彼らを散歩に誘った。

 帝国の文明の高さを思わせる装飾が施された廊下を抜けて回廊に差しかかった時、ルースは見知った後ろ姿を見かけた。彼女達と共にこの宮殿に連れて来られて以降、見ていないその人物。

 ルースは連れにここで待っていてくれと頼み、足早にその人物に近寄って声をかけた。

「久しぶりね。あなたは確か、領主の館のメイドよね。ミーザ・ルマンダ……だったかしら」

 振り向いた彼女の目は、なぜかとても冷たい。

 どうしてそんな目を向けられるのかわからなかったルースだが、その謎はすぐに解決することになる。

「大罪人が気安く呼ばないで。それに、その名前はあそこで過ごすための仮の名前。そんな名前の人はここにはいないわ」

「そう……つまり、帝国のスパイだったってことね」

 ルースの目からもあたたかみが消える。

 そんな彼女の変化も意に介さず、ミーザ……エルザナ・システィックは敵意むき出しで対峙する。

「スパイだったらどうだというの。世界に絶望をもたらした王国民に咎められるいわれはないわ」

「咎めるつもりはないわ。ただ、タイミングが良すぎたから。あなた、地の特殊な力を持っているのね?」

 高地であるこちら方面を目指していたとはいえ、箱船は出航からわずか数か月後に大海原で帝国の小型船に発見された。偶然にしてはタイミングが良すぎる。

 もちろんエルザナに答える意志はない。彼女は蔑んだ目でルースを責める。

「だいたい反省の色が感じられないのよ。どうせ貴女達は自分には関係ないと思ってるんでしょ。上が勝手にやったことだからって。火の一族を滅ぼしたことも、世界の大半の人を死に追いやったことも……私達の家族を殺したことも」

 一方的に憎しみを向けられたルースはさすがにムッとしたが、感情に任せて言い返す前に自身の事情を説明することから始めた。

「たしかにあの実験は危険極まりないものだったと思うわ。止められるなら止めたかった。でも、私達は実験のことを知らなかったし、その後知らされて止めようと思ったけど意見できる立場じゃなかったのよ」

「貴女にできなくても、あのお姫様ならできたでしょう!」

「彼女も何も知らされてなかったわ。そもそも離宮に幽閉されていたようなものだったし」

「それって何の苦労もせず、のうのうと生きてきたってことよね」

 嘲笑うエルザナに、とうとうルースの我慢も限界に達した。リモス村で命がけの使命に臨もうとしている彼女が、王国でどのような扱いをされていたか知らない者に、当時のことについて何かを言われるのは許せなかった。

「もとはと言えば、帝国の覇権主義が原因でしょ。帝国は武力で他国を侵略して世界を手中に収めようとしていた。それに唯一抗える力を持っていたのが王国だった。王国は自国民と、連なる小国を守るために兵器の開発を急いだのよ」

 その結果が大洪水だとルースは考えている。

「下手に逆らうからよ。神の力も持たぬ下民が……」

 嘲笑に狂気じみた暗さを乗せたエルザナは、おもむろにルースの首に手をのばす。

「私は、一瞬で貴女の中の魔力を狂わせることができる」

「それが何だってのよ」

 ルースはエルザナの手を強く払いのけた。彼女くらいの力のある水の魔術師ならば、水分を一瞬にして気化することだってできるのだ。

 エルザナがもしルースの魔力を狂わせたとしても、全身の水分を失って死ぬことになるだろう。

 一触即発の緊迫した空気を破ったのは、偶然通りかかったグレアム・ハルベルトだった。

「何をしているんですか、お二人とも」

 剣呑な空気を察したグレアムがエルザナをルースから引き離す。

「エルザナ、ルースさんはお客人ですよ」

「……王国の貴族より、スラムの子達の方が大事よ」

 憎々し気に吐き捨て拳をきつく握りしめるエルザナ。

 グレアムはその手を取り一本ずつ丁寧に指を開かせていく。

「あの惨劇から5年が過ぎました。民の暮らしは安定してきて、恐怖も少しずつ和らいでいます。大丈夫です、私達の主を信じましょう」

「……ごめんなさい」

 うつむいたまま呟き、エルザナは走り去ってしまった。

 それを見送ったグレアムが、代わりにルースに謝罪する。

「別にいいわ。私もカッとなってしまったし」

「……土の壁が取り払われた後のことを聞いたことがありますか?」

「いいえ」

「水位が落ち着いた後も、絶望と恐怖から多くの国民が崖から身を投げました。陛下は国民の命を守るために、その感情を王国への怒りにすり替えたのです。すべてを王国のせいにして、王国への怒りを生きる糧にして……絶望で死に向かおうとする心を何とかしようと考えたのです」

「……わからなくもないわ」

「あなたも巻き込まれただけということは知っています。またエルザナがちょっかい出してくるかもしれませんが、どうか許してやってください。勝手ですみません」

「いいわよ、私が大人になってあげる。でも、さっきは助かったわ。ありがとう」

 ルースは気丈に微笑み、青い顔をして様子を見守っていた連れと共に去って行った。

 一人残されたグレアムは壁に背を預けて大きく息を吐く。そして首に下げている魔法鉱石のついた指輪を握りしめ祈るように囁いた。

「力を貸してください……姉さん……」

 

 連れと別れ自室に戻ったルースは、苛立ちのまま壁を叩いた。

「私だって、家族を失った……っ」

 頭に渦巻くエルザナの憎しみの言葉をむりやり打ち払い、遠い離島で奮闘する彼女を思った。

「ちゃんと帰ってきなさいよ。……死なないで」

 同時に、自分もここでしっかりやらねばと弱くなりそうな心を戒めた。