『ココロの世界』

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◆あの頃
 冬の初めの早朝の神殿は、人も少なくひんやりとした空気に包まれていた。
 そこでグレアム・ハルベルトチェリア・ハルベルトが帰還したことを、礼拝に訪れたヘーゼル・クライトマンから聞いたリキュール・ラミルは、安堵の息を吐いた。
 これで子供達の身を誰よりも案じていたハルベルト公爵も一安心だろうと思われたが、そうではないらしい。
「これから団長の中の歪んだ魔力を追い払い、魔法具に封じられている精神を開放する予定だ。それが成功して、やっと団長の帰還となる」
「そうでございましたか。手前も成功をお祈りいたします」
 ありがとう、と言ってヘーゼルは宮殿へ向かって行った。
 リキュールは礼拝堂で、公爵の心痛を思いながら祈りを捧げた。
 心静かに頭を垂れていると、不意に脳裏に見たこともない景色が浮かんできた。
 そこは雪と氷以外には何もなく、身を切るような寒風が吹きつける厳しい環境の大地だった。
 もしや氷の大地では、とリキュールは直感した。
 思い出されるのは、腐れ縁の伝言だ。

 ――カエルとの貸し借りは全てチャラにしてやる。せいぜい長生きしろよ

 リキュールの胸に、たちまち二十年前の出来事が蘇る。
 当時のリキュールは、ポワソン商会の後継者として頭角を現しつつあった。
 そうなると、次は跡継ぎである。
 候補として挙がったのは、貴族令嬢。それも名門の。
 ポワソン商会は老舗の豪商であったが、身分は平民。名門貴族との縁談などあるはずがない、とリキュールは驚くと同時に訝しく思った。
 この話には何か裏がありそうだと感じ密かに探ってみたところ、なるほどと納得できる事情が判明した。
 縁談相手のキューブリック家の末娘は、かなり気難しい性格のようで、家では厄介者扱いをされているという。この縁談も、持て余した娘を嫁入りという体裁で厄介払いしようという意図らしい。
 リキュールは、その厄介者を押し付けられるところなのである。
 末娘は、この縁談に猛反発しているそうだ。
 そのことは、リキュールにとっても都合が良かった。彼もまた結婚の意志がなかったからだ。
 お互いの利害の一致を見たリキュールは、キューブリック家の末娘へ逃走資金と移動手段を提供した。
 すると彼女は迷わず実家を出奔して騎士団へ駆け込んだのであった。
 これで二人は晴れて自由の身、それぞれの道を邁進すべし……とはならず、これが始まりとばかりに脳筋騎士との縁は続き、大洪水でさえもそれを断ち切ることはできなかった。

 礼拝に訪れた人々の足音で、リキュールの意識は現実に戻された。
 まだ少し過去を見ている脳のピントをしっかり合わせ、リキュールは神殿を後にした。

◆精神世界へ
「エルザナちゃん、ちょっくら行ってくるねー」
 と、明るい顔で妻のエルザナ・システィックに手を振り、グレアムの精神世界に入ったロスティン・マイカンだったが……。
「いや、これシャレになんねぇだろ」
 グレアムの姿を真似、《過去》《現在》《未来》の時間に分断した三体の歪んだ魔力が発するハーフの特殊能力に、いきなり苦戦を強いられている。
 グレアムの特殊能力は、味方の能力を上昇させ敵の能力を下降させる効果がある。
 そのため三体の影響範囲内にいるロスティン達は、大変不利な状況に置かれていた。
 何となく体は重いし、魔法を使う隙を窺うも集中力が乱れがちだ。
 自分よりはるかに機敏に動けるはずのウィリアムも、動作にいつものキレがないように見えた。
「三体をまとまらせたままじゃ詰んじまう。よし……」
 大きく深呼吸して途切れそうになる集中力を繋げ、ロスティンは傍に大き目の水の玉を二つ作った。しかし、あまり長く持ちそうにない。
 警戒した一体が斬りかかって来るが、滑り込んで来たウィリアムがそれを受け止めた。
「助かった!」
 短く礼を言ったロスティンは、他の二体の様子に目を走らせる。
 それぞれに仲間達の相手をしていて、こちらにはあまり意識を向けていない。
 やるなら今だ、とロスティンは二つの水の玉を、その二体に向けてそれぞれ飛ばした。
 高速で飛ばされた水の玉を受けた二体は、その勢いに押され離れていく。
 包囲が解けた。
 ロスティンは仲間達に叫んだ。
「こいつは俺達に任せて、お前達は目標を達成してくれ!」
 直後、ロスティンの足元の地面が突き上がり、彼は宙に飛ばされて地面に叩きつけられた。
 ナイト・ゲイルがロスティンの名を呼んだが、ロスティンは手を挙げて制した。
 ナイトはその意志を尊重し、相手をしていた一体のもとへ駆けて行った。
 膝を着き、立ち上がろうとするロスティンをかばうようにウィリアムが前に立つ。
「やっぱ、きつかったか? だが、おかげで三体は引き離された。体が軽くなった」
「ああ、それは感じる。よし、休憩終わり!」
「もういいのか?」
「あんまりのんびりやってると、エルザナちゃんへのお土産を持って帰れなくなるなるからね」
「あー、どうもゴチソウサマ」
 軽口を叩き合っている間に、ロスティンはだいぶ回復していた。
 再び水の玉を作る。
 すると、ロスティン達が態勢を整えるのを待っていたかのように、グレアム《現在》が仕掛けてきた。
 ウィリアムが受け止めた一撃は、先ほどよりも軽い。
 とはいえ、剣術に長けていることには変わりない。
 続いて繰り出される鋭い切っ先を、ウィリアムは回避に重点を置き相手を観察した。
 受け止めるしかない剣を受け止め押し合いになった時、ウィリアムは試しに聞いてみた。
「あんたはグレアムのことはどう思ってんだ?」
「良い素材だ。この体は居心地がいい」
「居心地とかあるのか」
「支配しにくい体はある。ところで、お前達はこの体をどうしたいのだ? あの人間が持っているのは、この体の持ち主の精神だろう?」
 《現在》は、視線でヘーゼルを示した。
「我らを消し、この人間の精神を開放して元に戻しても、いずれまた我らと混ざり合う。同じことの繰り返しだ。――命だけ繋ぎ、どこかに閉じ込めておくのか?」
 《現在》は、薄ら笑いを浮かべた。
「どうするかは、本人が決めることだろ。その厄介な体質のことは、俺にはわからねぇ。だが、死んで責任を取るってんなら話は別だ。甘えてんじゃねぇよと言ってやるよ。生きたくても、生きれなかった奴は大勢いる。そいつらが俺らに繋いでくれてんだ。償う気があるなら生きて恥を晒して、足掻いて成し遂げてから死ねと言うね」
「我らの中にも、生きたくても生きれなかった者達はいるのだから、その無念をこの体で果たさせてほしいものだな」
 会話は終わり、お互いを弾くように距離を取った。
 少しでも自分に有利な間合いを取ろうと、二人は隙を窺いながらじりじりと移動する。
 その時、ウィリアムは《現在》が仲間と合流しようとしていることに気が付いた。
「させるか!」
 ウィリアムは、《現在》が距離を縮めようとしている方向へ火を熾し壁とした。
 水を纏い、火の壁を突破しようとした《現在》を、ロスティンの水の玉が押し戻す。
 その水の玉は、せり上がった地面に壊された。
 《現在》は、その水を利用して移動を試みようとしたが、その前にウィリアムが火で蒸発させてしまった。
「考えているな」
 歯ごたえのある相手に、《現在》は楽しそうに口の端を吊り上げる。
 すると、赤黒く陰気な空に雨雲が集まってきた。
 ロスティンとウィリアムは危機感を覚え、雨雲が集まりきる前に仕留めることを決意した。
「ロス? 集中して合わせるぞ」
「わかった」
 了解したはいいが、ロスティンはだいぶ疲弊していた。そろそろ魔法も打ち止めになりそうだ。
 ウィリアムは、相手の注意を引くため大声を発して突進した。
 ハーフの特殊能力で、体が重くなったように感じたが構わず駆ける。
 《現在》がウィリアムを返り討ちにしてやろうと身構えた時、二人の間に大きな水の玉が割り込み視界を歪ませた。
 虚を突かれた《現在》は、ウィリアムを見失った。
 一方のウィリアムはロスティンの援護をわかっていたため、《現在》の脇に滑り込む。
 直後、水の玉が壊れた。
 そして、
「ウィル、後は任せた!」
 力を振り絞ったロスティンの叫びとほぼ同時に、氷の槍が撃ち出される。
 狙いは惜しくも外れたが、《現在》の意識から一瞬ウィリアムへの警戒を消すには充分だった。
 力尽きて倒れるロスティンを視界の端に捉えながら、ウィリアムは力いっぱい踏み込み、《現在》の玉へ剣を突き入れた。
 渾身の力を込められた切っ先は玉と、さらに《現在》の体も貫いた。
 《現在》の体が砂のようにサラサラと崩れていく。
 《現在》は、皮肉気な笑みを浮かべた。
「どうせ、繰り返す……」
 呪うように言い残し、その体はすべて崩れ去り風に流されていった。
 ウィリアムは舌打ちして剣を収めると、寝転がっているロスティンの様子を見に行く。
 大の字になっている顔を覗き込むと、気絶はしていなかった。すぐにも眠ってしまいそうな顔ではあったが。
「とりあえず、俺らの役目は終わりだ。点数稼ぎ終了だな」
「あ、ウィルもか」
 二人はクスッと笑い合った。

 ロスティンの水の玉に押し出された二体のうち、アレクセイ・アイヒマンカーレ・ペロナが追ったのは《過去》の時間の玉を持つグレアムだった。
 《過去》はすぐに体勢を立て直し他の二体と合流しようとしたが、アレクセイはその足元に火を熾して行く手を阻んだ。
 たたらを踏んだ《過去》に、剣で鋭く斬りかかる。
 弾き返した《過去》の剣との間に火花が散った。
 アレクセイは《過去》を見据えて切っ先を向けた。
「逃がしませんよ! 私に集中してもらいます!」
「では、あなたを倒してしまえばいい」
 《過去》も剣を構える。
 状況はアレクセイに不利だ。彼は《過去》の特殊能力の影響下にある。
 それでも退くという選択肢はない。
(チェリア様、大丈夫です。きっと俺達がグレアム様を取り戻します)
 想い人の顔を胸に、アレクセイは《過去》を切り崩す隙を窺った。
 カーレもまた、どうしたら敵に隙を作れるか探っていた。
 地の継承者一族の能力である、大地を通しての通話で集中を乱すという試みはうまくいかなかった。
 この通話は、双方が同時に地面に直接触れていなければならない。
 カーレが触れていても、《過去》が所持する玉は触れていないし、その体も同様だった。
 《過去》が手を付くか裸足にでもなれば通じるが、可能性は低そうだ。
 カーレは《過去》が所持する玉へ向けて直接呼びかけた。
「グレアムさん、あなたがやりたいことは、まだ成し遂げられていないはずです。歪んだ魔力に肉体と精神を好きにされたままの退場で満足なんですか。もしそれで満足というなら、神殿で祈る必要もなかったはず。意思をしっかり持って見てください!」
「……ん? これに話しかけてるのか?」
 《過去》は首に提げている玉に触れて笑った。
「これはグレアムの過去の記録だ。ここに感情や意思はない。あるとすれば……」
 《過去》は視線をヘーゼルに向けた。
 なるほど、とカーレは頷く。
「それでは、あなたを倒した後に改めて実行するとしましょう」
 ところで、こうして話している間も《過去》は隙を見せなかった。
 その時、カーレの意識が揺らいだ。
(何でしょう、これは……何かが、侵食してくるような……)
 思い当たる節に、カーレはハッとして頭を振る。
「抵抗すると、もっと酷いことになるが……」
 カーレの精神を支配しようとした《過去》が、仄暗い笑みを浮かべる。
 しかし、この行動が彼の隙となった。
「その魔法は……!」
 と、苦い経験を持つアレクセイが切り込んだ。
 アレクセイは次々と剣を繰り出し、《過去》が攻撃に転じる機会を封じようとした。
 彼による猛攻で、《過去》の精神支配からカーレは開放された。
 まだ完全に支配されていなかったため、カーレの意識は保たれたままだが、抵抗した分それが眩暈として襲いかかってきた。
(なるほど……こうやって他人の心を操るのですか)
 この感覚を忘れないようにして研究と研鑽を積めば、一人でもこの魔法を習得できるかもしれない。
 防戦一方だった《過去》だが、アレクセイに疲れが見え始めると攻撃に転じた。
 今度はアレクセイが防御に専念する番となった。
 一撃一撃が重く、受けるたびにアレクセイの腕がしびれていく。
「くっ……」
 《過去》も先ほどの防戦であちこちに切り傷を負っていたが、アレクセイにも同様に傷が増えていった。
「剣のほうは、あまり得意ではないようだな」
「そうかもしれませんね……!」
 このままでは押し負けてしまうという焦燥感に駆られていく。
 ──と、どこからか飛んで来た石礫が、《過去》のこめかみにぶつけられた。
 《過去》の体勢が崩れる。
 これを逃したら負けると直感したアレクセイは、剣を大きく振りかぶり勢いをつけて思い切り振り下ろした。
 袈裟切りにされた《過去》は、どうっと倒れた。
 血の代わりに、黒い色をした歪んだ魔力が霧のように流されていく。
 体を維持できなくなった《過去》は、末端部分から霧散していきながら不気味に笑った。
「そんなに、この人間に戻って来てほしいのか」
「当然です」
 間髪入れず、アレクセイは返した。
「グレアム様のことを、皆が待っているんです。ターニャが、チェリア様が。グレアム様には、その思いを受け止める義務があります。そう、義務です。どんなに罪が重くても苦しくても、生きて欲しいと願う人達がいる限り、生きなくてはいけない。死は逃げです。逃げることは許しません。グレアム様を思う人達を泣かせるなんて、俺は絶対許しません」
「ククッ……この人間がまだ子供だった頃、一族の残酷な儀式を目の当たりにし……その後は、命を捧げた義姉の思いを無駄にしないために生きてきた。そのためだけにだ。それを壊したのが自分だと知った時……そう、お前がもしその立場にいたらどうする。それでも、顔を上げて生きていけるか……?」
 グレアムを取り戻しに来た人達すべてをあざ笑いながら、《過去》は消えていった。
 そしてその場に残された玉は、歪んだ魔力に包まれたまま大地に溶け込んでいった。
 アレクセイは剣を収めると、カーレを見やり礼を言った。
 先ほど石礫を飛ばして隙を作ってくれたのは、カーレだ。
 まだ気分が悪いのか青白い顔色だったが、意識ははっきりしているようだ。
「少し休みましょうか。横になっていてもいいですよ」
「座っていれば、落ち着くと思います」
 カーレの眩暈は、しばらくすると治まった。

 ロスティンやアレクセイ達により、タチヤナ・アイヒマンルティア・ダズンフラワーが相手をするのは、グレアムの《未来》に関する時間の玉を所持した一体だけとなった。
 二人のやや後方にいるヘーゼルが、彼女達に言った。
「私はこの魔法具を守ることに重点を置く。補佐くらいしかできなくなるが、よろしく頼む」
「ええ、狙われても阻止します」
 《未来》から目をそらさずにルティアが応じた。
「グレアム団長の体も心も、絶対に渡さない! 返してもらうから!」
 声を発し、剣の切っ先を《未来》に向けるタチヤナ。
 《未来》はそれを嘲笑した。
「滅びを呼ぶこの体に何を望むというのだ。取り戻してどうする。どうせ先のない身だ」
「確かに、団長を呼び戻すことは、かえって苦しめることになるのかもしれない。それでも私は、団長は生きるべきだと思うから。散って行った仲間達に報いる方法は、決して死じゃない。団長が死んでも、彼らは満足なんてしない」
「生きて、また仲間を巻き込んで殺し、それでも生きろと。よほど地獄に突き落としたいと見える。良い仲間を持ったものだ……クククッ」
 皮肉っぽく笑う《未来》に、タチヤナは目つきを鋭くさせた。
 負けてなるものか、と睨む。
「地獄だなんて……そんなことない。もしかしたらグレアム団長は気づいてないかもしれないけど、スヴェルの団長はグレアム団長しかいないし、団長にしかできないことがいっぱいある。団長に勇気と元気をもらっていた人はたくさんいる。私は……団長の苦しみを肩代わりすることはできないけれど……傍にいるよ。一緒に苦しんで、そして幸せをもらって、団長にも幸せをあげたい。団長は、生きて幸せになっていいんだ。地獄なんかじゃない」
 言い切ったタチヤナの前に、ぼうっと幻が浮かび上がる。
 ぼんやりしていたそれは、やがて一人の人間の形となった。
 幽鬼のようにやつれたグレアムだ。
「それが、生き長らえた果てのこの人間だ。我らが壊さずとも、自分を責め続けて自滅した姿だ」
 暗い笑みで《未来》は言った。
 その幻影を、ルティアが剣を一閃させて断ち切った。
「グレアム様のお心は、グレアム様だけのもの! グレアム様の未来は、これから切り開かれるのよ!」
「無駄なことだ……この人間は、こちら側の者だ」
「無駄かどうか、貴方が決めることじゃない!」
 タチヤナが地を蹴り、《未来》に斬りかかる。
 《未来》は、タチヤナの剣をすべて防いでみせた。
「くっ」
 所詮は偽物と思っていたタチヤナの予想に反し、《未来》の剣の腕は本物に匹敵するものであった。《未来》一体とはいえ、グレアムの特殊能力の影響を受けているせいもある。
 ルティアが加勢に入った。
 しかし二人がかりでも、なかなか間合いに入ることができなかった。
「我らの狙いはお前達ではない」
 《未来》は石礫を飛ばして二人を牽制すると、《現在》が集めていた雨雲に力を加え始めた。
 タチヤナが再び斬りかかって阻止しようとするが、感じる湿度は確実に上がっている。
 すでに雨雲は空全体を覆い、雨が降り出すのも時間の問題だ。
 剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。
 《未来》の剣と押し合いになったタチヤナの背後からルティアが飛び出し、奇襲を仕掛けた。
 とっさにタチヤナを蹴ってルティアの攻撃をかわそうとした《未来》だったが、切っ先がわずかに腕を掠めた。
 その時、ルティアの頬にぽつりと水滴が当たった。
 直後、ザアッと雨が降り出し、ひび割れていた大地がたちまちぬかるんでいく。
 ルティアはとっさにヘーゼルの名を呼び、振り向いた。
 思った通り瞬時に水の上を渡ってヘーゼルに肉薄した《未来》が、剣を交えていた。
 ルティアは素早くナイフを投げる。
 《未来》はヘーゼルが持つ魔法具の破壊にのみ意識を注いでいるのか、ナイフが背に刺さっても意に介すことなく攻撃を続けた。
 ハーフの特殊能力などなくても、もとより剣の腕はグレアムが上だ。
「好機だ!」
 ヘーゼルが、ルティアとタチヤナに叫ぶ。
 二人は飛沫を蹴立てて《未来》へと走った。
 ヘーゼルの手から剣が弾き飛ばされ、さらにぬかるみに足を取られて転倒した。
 魔法具へと突き下ろされる《未来》の剣を、転がってかわす。
 その際ヘーゼルは、泥を掴んで《未来》の顔へと投げつけた。
「うぐぅッ」
 目潰しを食らった《未来》の動きが止まった時、その体にルティアとタチヤナの剣が深く突き立てられた。
「ガッ……ガハッ……は、ははは……魔法具を壊しきれなかった、か……。だが、どうあがいても……この人間に、未来はない……」
 絶望の言葉を吐きながら、《未来》の体は霧散していった。
 水溜りに落ちた玉が、大地に消えていく。
 そして、雨は小雨になり、やがて雲が切れていった。
 元の沈鬱な赤色の空が広がっていく。
「二人とも、よくやった。ありがとう」
 立ち上がったヘーゼルが、ルティアとタチヤナを労い礼を言った。
 すっかり泥だらけのヘーゼルだが、怪我はなく魔法具も無事だ。
 他の二体のグレアムも倒し、辺りは静かになった。
 これで魔法具の中のグレアムの精神を開放すればいいわけだが……何故だろうか、どこか重く冷たい空気が漂い続けている。
 ヘーゼルは魔法具に目を落とした。
「まだ、駄目なのか……」
 ぽつりとこぼすと、ルティアが魔法具にそっと語りかけた。
「貴方が眠っている間に、セラミス様とお話ししてきました。生きてと、セラミス様からの言付けです。他は……お目覚めになってからお話ししますね」
 浮かべた微笑みには、優しさの中に茶目っ気があった。
 しかし、それはすぐに憂いの顔に変わる。
「覚えていますか? 貴方の荷を分けて欲しいと言ったことを。あの時の私は皇族の方々の使命を知らず、グレアム様の苦悩もわからずにいました。貴方をお止めすることができなかったのは、私の咎でもあります」
 過去の痛みが蘇ったかのように、ルティアは胸を押さえた。
「今はなお強く思います……グレアム様の苦しみを、罪を、私にも半分背負わせてください。生きているからこそ、償えるのです。生きて、幸せになってほしいのです。私は、ルティアはグレアム様をお慕いしています。一人の人間として、男性として……!」
 ルティアの脳裏に、グレアムが未来を慮る時の真摯な瞳や、日常の中でたまに覗くかわいらしい部分が浮かび上がる。
 そのすべてに、彼女は恋焦がれていた。
 だから、願った。
「どうか、お目覚めになって。共に、生きてください」

◆心の行方
 現実世界の魔力塔でグレアムの様子を見守るエルザナ達は、一様に不安そうな顔をしていた。
 寝台で眠るグレアムの様子が、あまり良くないのだ。
 今は落ち着いているが、少し前までは酷くうなされていた。
「兄様……」
 このまま死ぬつもりなのかと、きつく唇を引き結ぶチェリアの手を、励ますようにビル・サマランチが握った。
 強張っていたチェリアの顔が少しだけ緩む。そしてエルザナに尋ねた。
「兄様の中の歪んだ魔力はまだ留まったままなのか?」
「……はい。よほど手ごわいのでしょうか。わずかに残っているように感じます」
 魔石を通して感じたままを、エルザナは正直に答えた。
 チェリアは、ピクリとも動かないグレアムの手に、自分の手を重ねた。

 

☆ ☆ ☆

 

 この氷の大地で行われた作戦で、多くの帝国人が命を落とした。
 Sスヴェル団員、帝国騎士……作戦を共にした彼らはみんな、リンダ・キューブリックにとっては戦友だ。たとえ名を知らなくても。
 埋葬した墓に眠る戦友達に、リンダはしばらく黙祷を捧げた。
 祈りを終えて目を開けると、そこに広がるのは果てしなく続く雪と氷の世界。
 命あるものをすべて拒むかのような過酷な環境は、それ故か神秘的なものとしてリンダの目に映った。
 息をするだけで体の芯まで凍り付きそうな冷たい空気に晒されているうちに、怒りや雑念も氷の結晶となったかのように、ただ静かになっていく。
 精神が、冴えていく。
 普段は思い出しもしない記憶が、走馬灯のように浮かんできた――

 今から二十年も昔のこと。
 名門キューブリック家の末娘のリンダは、人生の転換期を迎えようとしていた。
 大柄で筋肉質な外見から、リンダは鬼子として肉親から疎まれていた。
 性格も好戦的で協調性に欠けるマイペース。
 唯一の味方であった世話役の老女を亡くし、家の中で孤立していた。
 さらに武勲の誉れ高い初代当主の血を誰よりも濃く受け継いでいたことが、余計に忌避される要因となっていた。
 つまり、キューブリック家の厄介者だったのである。
 完全に末娘を持て余した親は、嫁入りという体裁で他家に押し付けることを画策した。
 貴族の娘で十三歳なら、縁談話が上がっても不思議はない。
 相手は、老舗の豪商ポワソン商会の跡継ぎで近頃メキメキと頭角を現している、リキュールという若者だ。
 本人の与り知らぬところで進められたこの縁談のことを聞くと、リンダは猛反発をした。
 そんな折、当の相手のリキュールから逃走資金と移動手段を提供された。
 どうやらリキュールも、不意の縁談話には乗り気ではなかったようなのだ。
 リンダは示唆されるまま出奔し、そのまま騎士団の事務所へ駆け込み入団してしまった。
 カエルを思わせる風貌のリキュールとの縁の始まりである。
(あの大洪水で浮世の重荷からは解放されたが、カエルとの腐れ縁は続いたな……)
 伝言も届いているだろう。
 回想から戻り吐き出した息が、白く風に流されていった。

◆動き出す、今
 グレアムの影は、もう出てくる気配はない。
 それなのに、すっきりしない空気にヘーゼル達は戸惑っていた。
 はたして、この状況で魔法具の中のグレアムの精神を開放してもいいのだろうか。
 どこかに潜んでいる歪んだ魔力に吸収されでもしたら、取り返しのつかないことになってしまう。
 しかし、いつまでも悩んでいる時間もない。
 ヘーゼル達をここに送り込んでくれたエルザナ達に負担がかかるからだ。
 意を決してヘーゼルがグレアムの精神を開放しようとした時、ナイト・ゲイルが口を開いた。
「ちょっと思ったんだが……」
 ヘーゼルは手を止めてナイトを見た。
 ナイトは、魔法具の中のグレアムの精神に向けて問いかけた。
「もう辞めたい? 今の立場とか今までの色々な責任とか、皆からの想いとか自分の過去からのしがらみとか、貴方に関わるすべてが辛くて苦しくて痛いから、すべて放り投げて全部終わりにしたい?」
 魔法具が何か反応することはないが、ナイトはそのまま続ける。
「それならそれでいいんじゃないかな。俺は貴方に関わるすべてを、それに起因する苦痛や不安を理解することができない。色々と引き留める声はあるだろうけれど、それで戻ったとしてもそれらがなくなるわけじゃなく、さらに色々なものが積み重なっていく。今までのものに加えて、それも背負ってくださいとは言えない」
 それは自分で決めるものだとナイトは思っている。
「だから、全部放り投げて終わっていいよ、好きにしな。自分の終わりすら自分で決められないのはあんまりだ。この選択だけは、貴方の自由にするべきだ。最後に……何のしがらみもなく、何も背負わず、何もなくなって身軽になったと思えたなら、一回だけ振り返ってくれ。思い残すことは何もないのかと――今までのこと、これからのことを背負うことになっても、手を伸ばすべきことはないのかと」
 ただし、終わっても戻っても、やり直しはできない選択である。
 せめて後悔だけはないように、とナイトは言う。
 それから、フと口の端に笑みを浮かべた。
「俺も選択したけれど、腹括って選択するのはけっこう気分爽快だぜ? 後は進むだけだからな」
 直後、魔法具が勝手に開いた。
 ナイトは慌てて、俺じゃないと手を振る。
 それから、ヘーゼル達を浮遊感が襲った。
「戻されているのか?」
 ヘーゼルの呟きを最後に、全員の意識が暗転した。

 グレアムを乗っ取っていた歪んだ魔力は、とりあえず魔石に吸収された。
「とりあえず?」
 グレアムの精神世界から戻ったヘーゼル達は、その間に現実世界で起こっていたことをエルザナから説明されていた。
「ええ、とりあえずです、ヘーゼルさん。全部吸収しきれた手応えがないのですが、不思議とグレアムさんの状態は安定しています。今なら、チェリアさんの能力で安全に融合できるでしょう」
「そういうわりには、あまり納得していないようですが……やはり何か懸念が?」
「はい……このことが、何か影響を及ぼすのか、それとも何事もなく済むのか」
「やってみなければわからない、ということですね。そして、やるなら今がいいと」
 ヘーゼルに、エルザナは頷いた。
 二人の視線がチェリアに向く。
「……やってみよう」
 チェリアは、覚悟を決めた目でグレアムに触れた。
 少しして融合が終わると、ヘーゼル達の目は今度はグレアムに注がれた。
 やや張り詰めた空気の中、グレアムは静かに目覚めた。
 何度か瞬きを繰り返した後、グレアムは集まっている面々に気が付き驚いたような顔をした。
 ここで何をしているのかといったふうだ。
 チェリアは目覚めたことに安堵した。
「兄様、説明します――」
 チェリアから簡単にだがこれまでのことを聞いたグレアムは、深く息を吐き出した。
「いろいろと、苦労をかけてしまいましたね。助けてくださって、ありがとうございます。皆さんの声は、何となく聞こえていました」
 ご心配をおかけしました、とグレアムは改めて礼を言った。
「おかげで、概ねは計画通りにいっているようで何よりです。あとは……」
「ええ、陛下がセラミス様の精神と融合して、すべての魔力を統べる王におなりになるだけです」
 ふと、グレアムの様子が変わった。
「……セラミス様? ああ、陛下の双子の姉君ですね」
 チェリアの表情が凍り付いた。
 チェリアは焦った顔で、グレアムにセラミスのことを聞き返す。
 わかったのは、グレアムがセラミスのことをよく覚えていないということだった。
 他にも色々と尋ねてみた結果、記憶に欠損があることがわかった。
 その事実に、グレアムも口を閉ざしてしまう。
 重苦しい沈黙を破ったのは、ルーマ・ベスタナだった。
「一時的なものかもしれない。しばらく様子を見てみよう」
 グレアムはすぐにスヴェルに復帰はせず、休養することになった。
 そして、いったんヘーゼル達もそれぞれの仕事に戻って行ったのだった。

 休養中、グレアムは魔力の有無を調べられた。
 エルザナの予想では、魔力は失われると言っていたからだ。
 結果は、その予想通りだった。
 地の魔法も水の魔法も、グレアムは一切使うことができなくなっていた。
 精神世界での出来事については、ヘーゼルから詳しい報告が上がっている。
 エルザナとルーマは、その報告書に書かれていたグレアムの分断された時間の玉に着目した。
 《現在》は破壊され、《過去》と《未来》は高濃度の歪んだ魔力に包まれたまま、精神世界の大地に沈んでいったと記されている。
「それが記憶の欠損の要因なのでしょうか……。高濃度の歪んだ魔力……ですが、グレアムさんはもう魔法が使えません。今も内に残ったそれらから影響を受けている様子もありません。どういうことでしょうか?」
 エルザナの疑問は、ルーマの疑問でもあった。
「記憶の欠損と引き換えに、知らないところで消滅したのでしょうか」
「確か、融合前にグレアムの中の歪んだ魔力はすべて吸収した手応えはないのに、不思議と安定していると言っていたな」
 ルーマの確認にエルザナは頷く。
「感覚の話なので間違っているかもしれませんが、確かにそう感じました」
「もうしばらく様子を見るしかないか。ところで、グレアムは今は何を?」
「先ほど、中庭で剣の稽古をしているのを見ました。私、少しお話ししてきます」
 エルザナが席を立つ。
 この件については、また後で話し合うことになった。
 中庭へ出たエルザナは、一心に素振りを繰り返しているグレアムを見つけた。
 離れたところから様子を窺っていると、彼女に気づいたグレアムが手を止める。
 エルザナは会釈してから歩み寄った。
「何かご用ですか?」
「少しお伺いしたいことがあったのですが、お稽古の後でもかまいません」
「いえ、いいですよ」
 剣を収めたグレアムに礼を言うと、エルザナは体に魔力の流れを感じるかどうか尋ねた。
 いいえ、とグレアムは首を振る。
「魔法はまったく使えませんし、何も。以前、歪んだ魔力に侵されていった時のような感覚もありません」
「それなら、良いのです」
「……まだ中に残っているかもしれないことなら聞きました」
「その、何も変わったところはないのですか」
「ありませんね……と言っても、前も自分の知らないところで影響されていたのですから、俺の感覚はあてになりませんが」
 グレアムは自嘲気味に笑った。
 その後も毎日、魔力の有無やその他の検査が行われたが、魔法は使えず、歪んだ魔力に関する反応も見つけられなかった。
 また、身体的にも不調は見られないので、本人の意向もあってもう少ししたらスヴェルの活動へ復帰する予定だ。
 そのことをまだ入院中のヘーゼルに手紙で伝えると、
『人手が足りなくて困っていました。復帰後は、団長も私も休む暇なんてありませんよ。また共に励める日を楽しみにしています』
 という短いが温かい返事が来た。
 とんでもない事件を起こしたことから辞職も考えたが、グレアムは最後までまっとうすることで償うと決めていた。
 ヘーゼルはそれに賛成したし、グレアムの復帰を望む団員も多くいるという。
 一度失った信頼を取り戻すのは、並大抵の苦労ではないという覚悟もできた。
 傷つけてしまった人達へ、死ぬまで尽くすつもりだ。
「たくさんの人に繋いでもらった命です。お返ししなくては――」
 復帰の日を、待つのだった。



マスターより
こんにちは、冷泉みのりです。
当シナリオにご参加してくださり、ありがとうございました!
記憶の欠損はありますが、グレアムの精神は本体に戻りました。
魔法は使えなくなりましたので、今後は歪んだ魔力の影響は受けないだろうと考えられています。
スヴェル復帰の時期はまだ決まっていませんが、戻った時はまた団員の方々のお世話になると思います。
よろしくお願いします。

それでは、共通の最終回などでまたお会いできたら嬉しく思います。