今、一番たいせつなもの
リモス村に停泊したアルザラ1号の乗組員たちは、洪水前にアルザラ港から出航した別の避難船がこの地にたどり着いたこと、そして他にも生存者がいると知り、驚きと喜びに包まれていた。
そのため、タウラス・ルワールの妻であるレイニ・ルワールは忙しなく、港町の人々の面会の調整や、宮廷の要人との相談に動いていた。
「疲れてませんか? 眠れる時に休んで。アッシュのことは任せてください」
授乳を終えたレイニにタウラスが手を伸ばすと、レイニはすぐに「いやっ」と返す。
「アッシュと私の貴重な時間を奪わないで」
レイニにはもう一人、死別した前夫との間に子どもがいた。洪水時、14歳だった女の子で、名前はリッシュ・アルザラ。
同じ避難船に乗っていたのだが、1人で勝手に他の船に移ってしまったとのことだった。
『ここにたどり着いた船に乗ってたんだって。でも、救助される前に海に落ちて死んじゃったんだって……馬鹿な子ね』
宮廷から帰ってきたレイニは、タウラスに悲しげな笑顔でそう報告しただけで、直ぐに沸き立つ皆との相談に動き、その後娘のことは一切口にしない。
タウラスも自分から聞こうとはしなかった。
元々、息子アッシュを可愛がっていたレイニだが、それ以来溺愛っぷりが激しくなり、空いた時間は全てアッシュといることを望み、船内の自室にいるときは自分の寝食を忘れてアッシュを構っていた。
そんなレイニの胸の内を、タウラスは知らなくはない。
昔、彼女が難民村の村長であり、タウラスは彼女の補佐だった頃。2人きりで、お酒を飲みながら、娘の話を聞いた時――垣間見た、レイニの心、深い悲しみ。
あの時は、少しの間軽く抱きしめる事しか出来なかった。
だけれど、今は分かち合える存在なはずだ。ただ、2人だけで過ごす時間が全くとれず、授乳中であることからお酒を勧めることもできずにいる。
「きちんと休みなさい。アッシュも遊びたいはずですよ」
タウラスは少々強引に、レイニの腕からアッシュを奪った。
「お腹を空かせたときだけは起こしますから」
既に離乳食も始まっているのだが、離乳食の用意も任せてもらえない状態だった。
「離乳食もレシピをくだされば、その通りに作りますよ。今晩の食事の準備も……」
「やめて~。絶対アレンジするでしょ、栄養のあるものを食べさせたいとか考えて!」
レイニが寝ている間に作るとなると、しないと断言できるだろうか……。
とはいえ、見ている前で作るのなら、彼女を休ませることができない。
「避けていては上達もしないと思うけれどな……」
そう不満気に呟くので精一杯。
「アッシュ、お外に生えていたはっぱよー。ほらほら~」
「きゃっきゃっ」
既にレイニの興味はアッシュに移っており、雑草をひらひら動かしてアッシュを笑わせている……。
「かわりといってはなんですが後でハーブティーを淹れますね。カモミールとレモングラスをブレンドして」
アッシュを床に下ろして、タウラスはレイニの腕をとり、ベッドへ促す。
「目が覚めたら一緒にいただきましょう」
「ありがとう。あなたが淹れてくれるハーブティー、とても美味しいのよね」
「ほらアッシュ、お母さんがよく眠れるようにここで見守ろうか」
「あーぶー」
ずりばいをしているアッシュを、タウラスは再び抱き上げる。
「起きてちゃダメ? 3人でいられる時間を大切にしたいのよ」
「そうですね……それなら、3人で散歩に出てみますか? リモスの花も見ごろみたいですよ」
幸い、夜泣きはまだ始まっておらず、夜はある程度休むことができている。
「行く!」
レイニの顔に笑みが広がる。
リモス村の限られた花が観れる場所に、3人で向かって。
美しい花を、しみじみ眺める。
「ねぇ、タウ」
「はい」
花を見ながら、少しさみしげに彼女は言った。
「私たちの夢、あなたに任せてもいいかしら」
「え?」
「あなたとの子は、この手で守りたいの。大人になるまで側にいる」
腕の中の小さな命を、レイニは愛しげに抱きしめる。
「私たちは島に戻るわ」
そのまま、ここには戻ってこない。そう言っているのだろう。
世界の安定は彼女の夢だった。だけれど幼いアッシュを連れていくことは出来ない。この場所に連れてきたのも、やむを得ずだった。
そして、宮廷で保護されている人々を島で受け入れるのなら、港町の住民であり、かつてアルザラ家の嫁であった彼女はいなければならない存在だろう。
アッシュの面倒は村の女性たちが率先して看てくれる、はずだ。信頼できる医者もいる、魔物もいない……。
「アッシュ、ほらお父さんの頭に、花びらついてるよー。可愛いね~」
きゃっきゃっと声を上げながら、アッシュはタウラスにちっちゃな手を伸ばしてくる。
屈んで、アッシュに花びらをとらせてあげる。
「食べたらダメですよ」
微笑みかけて、レイニと顔を合わせて、微笑み合った。
3人で過ごせるこの時間が、とても愛しくてかけがえなく、何よりも大切だった。
■登場人物
アッシュ・ルワール
■作成クリエーター
川岸満里亜
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