トモダチ
これは、世界が大洪水に飲み込まれる前のこと。
ヴォルク・ガムザトハノフが、まだ何者でもなかった幼少期の出来事である。
ガムザトハノフ家の身分は貴族。
山に別荘を持っている。
幼いヴォルクは、家族と一緒にその別荘に来ていた。
ずい分と長いこと訪れていなかったのか、別荘はだいぶ荒れてしまっていた。
管理人を雇うべきだったとか両親が話し合っている横では、ヴォルクが別荘を囲む森に興味津々だった。敷地の外は深い森に覆われている。
内容のわからない両親の会話を聞き続けるのはつまらないので、ヴォルクは二人の傍からそっと離れた。
探検だ!
元は整えられていただろう広い庭は、今では草木が好き勝手に伸びていて、ヴォルクの背よりも高い。
それをかき分けて、思う方向へと進んで行く。
細い枝にイモムシを見つけ、その盛大な食欲に目を奪われた。
その視界の端を、ヒラヒラと蝶々が舞う。
興味はたちまち蝶々へ移り捕まえようと追いかけたが、蝶々はヴォルクをからかうように伸ばした手をすり抜けて行った。
高く、高く舞い上がって行ってしまった蝶々を見上げていると、すぐ近くでカサッと草が擦れる音がした。
目を向けると、丸い、毛むくじゃらの、何かが……いた。
フカフカとやわらかそうな毛は、草むらの色に似ている。
大きさは、ヴォルクの半分くらいか。
月ような色のまん丸の目が、きょとんとヴォルクを見つめていた。
「お……」
お前は何だ、と声をかけようとした直後、その不思議な生き物はダダーッと草むらの中に駆け出した。
「ま、待てっ」
追いかけるヴォルク。
丸い毛むくじゃらは、草むらを右に左に走りヴォルクから逃げようとするが、ヴォルクは見失うまいと必死で追いかけた。
「待てってば!」
もう少しで追いつきそうなところでヴォルクは飛びついて捕まえようとしたが、その生き物はするりとヴォルクの手から逃れてしまった。
一瞬だけ触れた毛は見た目通りやわらかく、ほんのり温かい。
ヴォルクの少し先でその生き物はチラッと振り向くと、また走って行ってしまう。
どうしても捕まえたくなったヴォルクは、ひたすら緑の毛むくじゃらを追いかけた。
追いかけて、追いかけて……いつの間にか、薄暗い森の中にいた。
そして、緑の毛むくじゃらを見失ってしまっていた。
「ど、どこだよ……緑の! おーい!」
あまり物怖じしないヴォルクでも、薄暗い森の中で一人ぼっちはさすがに少し心細い。
行く手を塞ぐ茂みを這って潜る。緑の毛むくじゃらがここに飛び込んだような気がしたからだ。
「イテテッ」
時々、細い枝に手足や頬を引っかかれながら茂みを潜り抜けた時、ヴォルクは目の前にあるモノに度肝を抜かれた。
目も口もポカンと開けて、それを凝視する。
それは一見するとイノシシだが、いやに胴長で、背に座席のようなものが乗っている。
生き物なのか、鋭い目がヴォルクを睨み威嚇するように鼻を鳴らし、前足で地面を掻いた。
「これは……あっ、お前!」
ふと、ヴォルクは変なイノシシの傍らに見失ったと思った緑の毛むくじゃらを見た。
しかも、他にも数匹いる。三倍近い大きさのものは親だろうか。
一番大きいのがヴォルクの前にやって来た。
小さいのと同じ、月のような色の目をしている。
純粋で、無垢で、それでいて深い知性を持った目だ。
すべてを見透かすような目が、ヴォルクを見下ろしている。
ヴォルクは少し緊張したが、胸を張って負けじと見つめ返した。
すると、ここまで追いかけてきた緑色の毛むくじゃらが、ピョーンとヴォルクに飛びついてきた。
びっくりして抱きとめるヴォルク。
その不思議な生き物は、ヴォルクの腕の中でモゾモゾと動いた。
フカフカの毛に頬をくすぐられ、ヴォルクはくすくすと笑う。
「くすぐったいよ」
そう言った時、額に何かがポコンと当たった。
落ちた何かを見やると、ドングリだった。
首を傾げていると、大きな毛むくじゃらがイノシシにドングリを与えて、背の座席に乗り込むのが見えた。
抱えていた毛むくじゃらもヴォルクの腕から飛び降り、大きいのに倣う。他の小さいのも。
ヴォルクが抱いていた毛むくじゃらが、座席からじっとこちらを見つめている。
君も早くおいでよ、と言っているような気がした。
ヴォルクは急いでドングリを拾ってイノシシに与えると、座席のある背によじ登った。イノシシは、ヴォルクよりずっと大きいのだ。
座り心地の良い座席にウキウキした直後、シシ車は矢のように駆け出した。
ヴォルクは後ろにすっ飛んで行きそうになったが、とっさに肘掛けにしがみついて何とか堪えた。
見ると、緑の毛むくじゃら達は車内の後ろに一塊になって押し潰されている。
シシ車は、ヴォルクが苦労した茂みなど物ともせずに森の中を突き進んだ。
そして迫り来る大木。
まさか突き破って行くのか、と身を固くしたヴォルクに次に襲いかかったのは、横への強い圧力だった。
暴力的なまでのその力に、カエルが潰されたような呻き声が出てしまう。
しかも、それは一回だけに留まらず、森を埋める木々を稲妻のようにジクザグに避けて疾駆するのだ。
そのため、ヴォルク達は大変な目に遭ってしまっていた。
ついにヴォルクも座席から放り出され、車内を毬のように跳ねた。
座席スペースは周囲を透明な膜に覆われていて、外に飛び出してしまうことはないが、弾力性のある造りのため乗っている者を翻弄する。
しかし、そんな中で大きな毛むくじゃらだけは、泰然とした様子で座席に収まっていた。
やがてシシ車は森を抜けた。
視界が午後の陽射しにパッと明るくなる。
シシ車は止まることなく草原を駆け、丘を上る。
そして上り切ったところでダンッと力強く地面を蹴ったシシ車は、宙に飛んだ。そのまま空を駆けて行く。
「えっ、飛んでる!?」
驚いたヴォルクは座席から身を乗り出すようにして眼下を見渡した。
森と草原の緑が広がり、細い街道がずっと遠くまで緩いカーブを描いて伸びている。
「あっ、別荘だ!」
ヴォルクは景色の一点を指して叫んだ。
緑の毛むくじゃらが身を寄せて来て、ヴォルクが指さす方を一緒に見つめた。
別荘を囲む森の周りには広大な草原があり、どこまでも緑の地平線が続いている。
夢のようなこの瞬間と爽快感に、ゾクゾクしたヴォルクが歓声を上げる。
彼が追いかけてきた緑の毛むくじゃらがそれに合わせてキャッキャと騒ぐと、他の小さいのもはしゃぎ出した。
どっしりと落ち着いているのは大きいのだけである。
シシ車はさらに高く駆け上り、雲の上まで辿り着いた。
「もう別荘なんて見えないや!」
綿菓子のような雲の隙間から見下ろせる地上は、人間の町がいかに小さいかを教えてくれた。
そして、世界はただただ大きかった。
シシ車は雲の塊をいくつも通り抜け、大空を自由に駆け回った。
やさしい声がヴォルクを呼んでいる。
その声に振り向いた瞬間、眩しさに視界が覆われた。
「……あれ?」
ヴォルクはやわらかいベッドの上にいた。
キョロキョロと周りを見回すが、緑の小さな毛むくじゃらはもちろん大きいのも見当たらない。シシ車も。
そもそも、いったいいつ別荘に帰ったのか。
覚えているのは、大空を駆けているところまでだ。
夢だったのだろうか?
窓を開けても、見えるのは草ぼうぼうの庭と森ばかりだ。
「……」
これは、また探検に出て探すしかない。
「待ってろー! また会いに行くからなー!」
ヴォルクは再会を楽しみにニッと笑った。
■登場人物
ヴォルク・ガムザトハノフ
■作成クリエーター
冷泉みのり
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